まず何しろ量が多い。彼の他の著作はみな簡潔で、『24の命題』のように論証部分しか書かなかったりと、長々とした論述は排除されていることが多いのだが、この著作に関しては異なった様相を呈している。
そしてそういった特徴からわかることは、彼は果てしなく学識が広いということだ。
『弁神論』の中ではほとんど宗教史の本であるかのようにあらゆる西洋の宗教思想が取り上げられている。キリスト教神学の大家であるアウグスティヌス、トマス・アクィナスは当然として、偽ディオニシウス・アレオパギテスや、スペインのユダヤ神学者であるモーセス・マイモニデス、そしてマニ教やゾロアスター教の教義まで検討されている。
ここに見られないのがニコラウス・クザーヌスだが、エリアーデによると彼は18世紀にレッシングなどが発見するまではほとんど埋もれていたらしい。
今回は『弁神論』から彼の神学、神学を超えた宗教理論を読み解いていこうと思う。
テクストは工作舎の『ライプニッツ著作集6-7』である。
最初に触れられる問題が信仰と理性の一致についてである。これに関してはテルトゥリアヌスなど独特の見解も見られるし、カントも信仰のために理性は場所を空けなくてはならないと考えている。
しかしライプニッツはカント以上に信仰を理性で捉えられるものとしていた。
つまり、理性と衝突する信仰など存在しないと言っているのである。
彼は「もし秘儀が理性と調停不可能であり、また解決できない反論もあるとすれば、この秘儀は把握不可能だというのではなく、そこには虚偽が含まれている」と述べている。
この場合の秘儀とは宗教の教義の一側面と見ていいだろう。そういった教義があるとき多くの宗教、神学はこれは信仰の領域であるために理性的に把握できるはずがないと主張するのであるが、ライプニッツはそんなものは宗教の教義ではないと言う。
もちろん彼の意図はこうして多くの教義を切って捨てていくことではなく、教義が把握不可能な場合われわれの理性が不完全なためと考え、最後までそれを理性で解釈することを諦めなかったのであろう。
このことが彼の宗教概念の根本要素の一つとなる。
その視点に立つと、宗教体験によって報告される奇跡というものはほぼ否定される。
奇跡は神が自ら定めた自然法則に反した現象であり、「奇跡は思ったよりも多くのことを要求する」ために、滅多なことがない限りは行われないとしている。機会原因論に反発するのもそれが神が常に奇跡を行っているようなものだからである。
一方「滅多なこと」としての奇跡というのも、実はわれわれが自然法則を誤解しているからに他ならない。
「神がある法則を曲げるのはもっと適用範囲の広い別の法則を守るため」だと彼は述べている。
これは実はきわめて科学的な立場なのである。例えばマイケルソン=モーリーの実験はニュートン力学では説明できない現象を観測しており、ニュートン力学の観点からすると奇跡である。
しかしこの法則が曲げられたために「もっと適用範囲の広い法則」すなわち光速度不変の原理が発見され、特殊相対性理論へと繋がっていったのだ。
つまり彼の規定する神の法則とは科学者の追い求めるものとなんら変わりはないものであって、修正しながら進んでゆくものなのである。
この点でライプニッツは当時では非常に「科学的」であったことがわかる。
次に前回は軽く触れるだけだった神の証明について考察する。
ライプニッツの神の証明はカントが「宇宙論的証明」と呼んだ第一原因に依るものだということは述べたが、それではトマス・アクィナスのものと区別がつかなかったし、「証拠」が不足していた。
『弁神論』によると、ライプニッツの神の証明を可能とする原理は「矛盾律」と「充足理由律」である。
このうち矛盾律は必然性を定義するもので、神が創れる事物の範囲を定めている。矛盾しているもの、例えば「赤くて赤くないバラ」のようなものでなければ神は創造できるのだ。
充足理由律とは、「あるものが存在するにはそれが存在しないのではなくむしろ存在するようになった根拠がなければならない」という因果関係についての法則で、これに反するような現象は観察できない。カントはこれを含めた因果関係を「カテゴリー」の一つとし、これなしには理性はものを考えられないとした。ちなみにライプニッツの著作の『24の命題』もこの原理の提示から始まっている。
彼の神の証明はこの原則を認めるところから開始するのである。つまり、
1.あるものが存在するにはその存在する根拠がなければならない。
2.(1)により、世界の存在にも根拠が必要である。
3.そのような根拠となりうるのは神しかありえない。
4.よって、神は存在する。
ということになる。問題となるのはやはり3であろう。しかし他の答えは見つかるのだろうか。
ともかく無から有が生まれることを証明するか、世界が最初から存在していた証拠が見つからない限りはこの論法は破れない。
ローマ教皇がホーキングに「ビッグバンは神の御業です」と述べた記録からも、現代のカトリック教会もこの論による神の存在証明を用いようとしていたことがわかる。
『弁神論』はさらに自由と決定の両立の問題についても触れている。
ここでの論点は、「神は最善なる世界を創るものなのだとしたら、そこに自由はないのではないか」という議論である。
ライプニッツはこれについて自由の定義を再確認することによって答えている。
彼の定義する自由の状態とは「自分の能力を満足に行使できること」である。あらゆる状況において論理的に行動し、自分がなすべき最善の行動を行う人間は自由がないのだろうか?それは違うとライプニッツは述べている。
彼は「善という動機は意志を傾かせるが強いることはない」という言葉により、傾向性という概念を持ち出している。
そして彼は自由に関わる三つの状態を区別する。絶対的必然性と、道徳的必然性と、均衡無差別である。
このうち絶対的必然性とは論理的に必然なもの、つまり反対が矛盾を含むものであって、ここで自由を語るのは無意味である。
均衡無差別とは他の者が自由の成立要件として挙げるもので、プラスの要素とマイナスの要素がともに全く等しい二つの選択肢があるとき、いわゆるビュリダンのロバの状態で選択できる能力こそが自由だという論法である。
しかしライプニッツはこのような想定は無意味だとする。そのような状態になるためには世界が選択者を基準として対称に創られなければならず、そのようなことはありえないというのである。
つまり道徳的必然性に関する選択のみが存在し、その必然性はあくまで傾向性なのでいくらでもそうしない可能性はあり、したがって自由も存在するのである。
こう考えると判断の根拠を多く持っているものに自由があることはうなずけるが、神も自由かということには依然疑問があるように思われる。傾向性がとてつもなく強かったらやはり他の選択の余地はないからだ。
ここで持ち出したいのがマーク・トウェインの『人間とは何か』である。トウェインはこの著作の中で人間=機械論を展開しているが、その論は人間は傾向性に支配されるものであり、その傾向性は外部によって与えられるものなのだから何一つ自由な行動などありえないという内容である。
だがこれは視点の問題であり、ライプニッツの言うように「自分の能力を行使できるかどうか」という点では自由であるといえる。
この自由の定義の根底にあるのは「自由とはサイコロが転がるようにランダムに行動を決定できることなのだろうか」という疑問である。
ライプニッツの答えは、確かに傾向性からは逃れられないのだがその傾向性を吟味し、自分なりの順位をつけられることこそが自由な状態なのだということであり、これには説得力があるように思われる。
一方、神の自由については別の弁護がある。世界は他のあり方も考えうるのだが、神がそれではなくむしろこの世界を選んだという事実こそが神の自由の証拠だというのだ。これはたまたま他の選択肢を考えられたから成立する論なのだが、ライプニッツの神においては考えられる(矛盾がない)ということは創造しうるということなので、なんとか成り立っている。
以上のように、彼の最善説にとって自由の問題は最も攻撃されやすい箇所だといえるだろう。
さて、ようやく『弁神論』の主要テーマである悪の存在についてということを考察する。こちらの問題については、議論にさほど困難はない。
『弁神論』の結論を一言で表すならば、「神は宇宙に心を配っている」ということになる。善というものを宇宙規模で判断するものだとしたことにライプニッツの特異性がある。
その考えによれば、あらゆる道徳的悪も物理的悪も総合としてはプラスであり、善のために役立つものなのである。
物理的悪、痛みや苦痛、についてはこの考えは実に整合する。痛みというものはそもそも悪い目的のために存在するのではない。肉体が危険にあっているという信号として発せられるのだ。風邪を引いたときの熱も同様に、なんとか治療を行おうとする結果として熱が出るのである。そのため無理に熱を下げる行動は体にとって害ともなりうる。
こうした生物学的見地からすれば、物理的悪は何かの役に立っている。
では罪に代表される道徳的悪はどうだろうか。これに関してもライプニッツは同様の考えだが、ある罪を防いだら自分も罪を犯さざるを得なくなるという例を出しその悪を容認しないことにはより多くの悪を生み出すことになると述べている。
しかしこれでは世界に悪が存在すること、神が悪の存在を許したことの説明にはならない。これについて彼は悪を善の欠如と捉える見方で対応している。そうすると先の例も「より小さな善」対「より大きな善」となって神が悪を存在させてはいないことになる。
この方法は確かに巧妙な視点の変更かもしれない。しかしこれ以外に悪を説明する論法はないのだ。ニーチェが述べたように悪は善があって初めて存在するものであって、善のあるところには悪もある。善悪の基準の設定こそが悪の原因なのだ。
だからこれは「左はなぜ存在するのか」と問うているのと同じことなのである。それには「右があるから」としか答えようがないし、左について「あまり右でない状態」という定義をすれば確かに左は消滅するだろう。
善悪の概念を設定する際に重要なのはその道徳的有用さである。ニーチェの「善悪の彼岸」の思想は刺激的でこそあれあまり道徳において役立つものではないが、ライプニッツの宇宙的道徳は現代でも十分に通用しうるものである。
「神は宇宙に心を配っている」から帰結することは、他者を、それが動物だとしてもないがしろにしないという姿勢である。
善は自分の利害だけではなく、あらゆるものの利害をあわせて考えるべきなのだ。何だか「最大多数の最大幸福」に通じる考え方のようだが、これは一つの道徳的指針を打ち立てていると言ってよいだろう。
そして「災難はいっそう大きな完全性に到達するための近道」と言ったときにそれは不幸の苦しみを和らげてくれるのではないだろうか。
彼のこの論理的な推論の末に出された宗教的な結論は十分に評価なされるべきだと思う。
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