2009年08月05日

ID論との実践組み手

前回進化論について調べている際「適者生存」「同語反復」で検索したらWEB上に愉快な文章を発見した。
これがその全体である。
なんとこの著者の渡辺久義という人物、創造デザイン学会の代表であることがわかった。
今回は氏の文章を読みながら、進化論への攻撃に対する反論を生兵法ながら行ってみようかと思う。
というわけでここからは丁寧語です。批判するのだったら丁寧なほうがよいと思うのです。

第二段落「曖昧な<生命><進化>」からいきましょう。
生命というものの中心に機械作用を見るのだから、それは立派な唯物論だが、唯物論だと言われると否定するようなところがある。
万有引力の法則も生物に適用されるし、機械作用なんですがこちらに文句は言わないのでしょうか。唯物論とは「見方」であり仕組みを説明するものではありません。つまり科学の手法に唯物論と言うのは「あなた科学だね」と言うことと同じです。生物学だけ唯物論ではいけないという理由は何なのでしょう。
「進化」を生命の高度化・複雑化という意味に解する限り、進化があったことは確かである。
進化とは高度化、複雑化ではないということはイースト・プレスでも言っています。使わなくなった翼が飛べなくなるのは高度化でしょうか?進化は単に「親とは違うものになること」です。
複雑化へ向かう性向は進化の流れでは発見できません。グールドは『フルハウス』の中で最単純からは複雑へしか向かうことができないが、複雑なものは単純へも複雑へもランダムに向かうので、結果として最単純から最複雑までの生物の種ごとの数は統計的な確率分布の図として表せると言ってます。今も昔もバクテリアが一番多いのです。
個々の生命体あるいは生命種が進化したという証拠は少なくともないのである。
生命体は進化しません。それだとラマルクの説になります。進化は二つの個体間にのみ見られるものです。親とは違う子供が産まれるという点で、生物学の言う進化の証拠は誰もが目にしていることです。
以前にも書いたように、時計というもの(のアイデア)が進化するのであって、日時計や水時計が徐々に変形して振子時計や電気時計になるのではない。
時計は進化しません。自己複製する生物ではないから。「親とは違うものになること」でなければならないので、爆撃機がステルス爆撃機になるのは生物学的な進化とは別のものです。
研究が進むほど、生命世界はデザインされたものとしか解釈できなくなるのに、
研究が進むのでなくて「哲学が進む」とそうなるような気がします。生命はデザインされたものであるとは、はるかな昔から言われてることじゃないですか。
とりわけ「自然選択」などというのは、まさに魔術というべき概念であり、
「十分高度に発達した科学は魔法と区別が付かない」
アーサー・C・クラークの言うとおりです。多くの人は区別がついていないんでしょう。
「適者生存」にいたっては全く話にならない同語反復である。
前回説明したとおり、反対論者はここを見つけては鬼の首を取ったかのように喜ぶ傾向があります。
こういった言葉を組み合わせて生命世界を説明したことにしようというのは、最初の生命概念が、そんなことで説明されうる程度の生命概念でしかなかったということである。
その程度の生命概念なのです。「自己複製する生物」というだけなのだから。でもこれで生命の進化が説明できるからこれを使っているのです。
にもかかわらず、それを唯一公認された学説として認め、他の考え方は認めないなどというのは、学問する者として許しがたいことである。
確かに大上段から他の論を否定するのであったら科学としては間違っています。もちろん、進化論も科学の理論である以上、いつかはそれに代わる説が出てくるかもしれません。でも、進化論は強力なライバルを何人もなぎ倒してきたという経歴があります。それは発表直後から現在まで続いているのです。そのくらいの反対論を否定できるだけの論ができてから進化論と肩を並べたいと言ってください。
この理論(進化論)の我々の内面に及ぼす破壊的な効果がどれくらいのものであるか、考えてみられるとよい。
ここに進化論否定派の動機の顕著なものが現れています。「それを認めると生の価値が下がる」というものです。でも進化論から意味を見出せというのは科学の側からは言っていなく、解釈する人が勝手にマイナスの意味を見出しているだけのことです。日々元気に生きるとか、生を促進するのは哲学や宗教であって、科学がそれを気にしなかったからといって問題はありません。
第一に、自然法則というものが、十九世紀に考えられたように非情で機械的で生命をもたぬものではなく、今この地上に存在する生命のためにあらかじめ定められたものであるという、あらゆる印象を支持する証拠が出揃い始めている。
「あらゆる印象を支持する証拠」というかその言説は昔のほうが盛りだくさんだったんですって。ライプニッツを見てください。
昔そういうことがすでに言われていたのだから、今目的論が出てこようと何ら真新しいことではありません。
そしてそれは、進化の全行程が最初からDNAという台本に書き込まれていたのではないかという、比較的詳細で、確からしい推測に根拠を提供する世界なのである。
DNAはアカシック・レコードなんでしょうか。DNAは個々の生物の設計図(正確にはレシピに近い)であって、過去や未来には何ら関わりを持ちません。
過去との繋がりがわかるのは、過去の生物と比較してその変遷を系譜学的にたどれるからです。
またここでもライプニッツっぽいです。ライプニッツの先見の明は驚くべきものです。

話は「自己組織化」仮説へと移ります。どうもこちらのほうがより目的論的なので、著者に評価されているようですね。
秩序が生命そのものか、生命の情報であるかのようにこの理論は思い込み、思い込ませたがるが、秩序とはそういうものではなかろう。(生命情報は誰かが書きかつ実行するものでなければならないが、単なる秩序はそのようなものではない。)
秩序は生命の起源といえるものです。たんぱく質とかが一箇所に集まったら、集まる前よりは生命に近いと言えますよね。エントロピーで考えてみましょう。エントロピーの減少はすなわち何か形のあるものができるということになります。
この著者、進化論はわかっちゃいないのにこちらの論が進化論に似ていることはわかるようです。不思議な話です。

総じて言えることは、どうして進化論を認めると目的論的見方はそんなに立場を失うのかということです。
宗教における神はどんな述語でも取りうるのに、「神がダーウィンを導いて自ら創った法則である生命の発生原理を発見せしめた」とは誰も言わない。神は自分の手の内を明かされることを嫌うほど狭量なのでしょうか。
生物学があったからといって神の活躍する場は沢山残されています。人間がより良く生きるためにはどうすればいいかとか、そういった科学が何も言えない分野に対してもっと大事な提言ができるのではないかと思うのです。
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