2009年08月01日

ライプニッツの道徳論

前回ではライプニッツの思想の基礎となる概念を紹介したが、今回はそれを基にして彼がどのようなことを考えているのか、道徳的、形而上学的な帰結を見ていこうと思う。

さて、ライプニッツの思想に大きく関与しているのは、キリスト教はもとより、プラトンである。
『パイドン』を見てみよう。ここでは魂が不滅かつ不死であるというソクラテスの論証が長きにわたって語られている。
ライプニッツの場合魂は不死であるという前提を受け入れ、それと分解してもこれ以上分けられないという原子論を組み合わせて、モナドが誕生したと言える。
『形而上学叙説』34節に「魂や実態形相は、ほかの哲学者たちの説にある原子すなわち物質の究極部分と同じように、完全に滅びることはできないということを認めないわけにはゆかない」とあることからもこれがわかる。
さらにプラトンの寄与がある要素がある。「動力因」と「目的因」の区別についてだ。これはアリストテレスの用語だが、動力因とは自然科学的な手法で現象の原因を調べることである。目的因は、ライプニッツにとっては「神の目的を考えること」であり、これが欠けた科学は危険であると言っている。
同著19節で「結果は原因に対応すべきものであり、しかも原因を知ることによってもっともよく知られるのに、万物を支配する最高の叡智を導きいれておきながら、次に現象を説明する段になるとその知恵を用いないで物質のいろいろな特性だけを用いるというのは、理に反するからである」と言っている。
これはガリレオの「私にはとても思えない。造物主が我々に知性を与えておきながら、それを使わぬようお望みになるなどとは」という言葉と似ており、当時の科学が「神の法則を明らかにする」ことを目指していたことがわかる。目的因を考えないものは唯物論者であり、それに『パイドン』で反発する意見が述べられていたことを20節で引用し、大いに共感が述べられている。
結局これは「自然そのものに造物主の意志がこめられている」という古代の意識と、「自然はわれわれに説教をたれるために存在しているのではない」という現代の意識の対立を如実に表しているのである。
もちろん後者のドーキンスの発言が現代の科学の姿勢であって、前者のようなものは今は過ちとされている。

次に彼のオプティミズムに基づいた道徳観について見ていこう。
世界がすべて善いのであったら、どうして悪は存在するのか。この神学的な論争は善を唱えるものにはつきまとうことであり、ニーチェが最も彼岸に送りたかった、つまりお陀仏にしたかった考えでもある。
このことに触れている部分は、『形而上学叙説』30節にある。
「なぜユダのような裏切り者が、神の観念のうちでは可能的であるにすぎないのに、現実には存在するのか」可能的の意味については重要なのでもう少し詳しく考える必要があるが、この問題に対しての答えはこうだ。「この問いにたいしては、この世で期待すべき答えはない」と。
これではあまりにも説明放棄である。この先の発言も錯綜している。最善論に基づいてこの罪人の存在が含まれている事物の系列が他のあらゆるやり方のうちで最も完全なものに違いないのだが、被造物は不完全であるためにこういうことをすると言っている。
つまりそこには「神の思し召しだ」そして「なるようにしかならない」という意識があるのだ。なんとも諦めきった態度だが、宗教としては妥当な言い分である。
一方『事物の根本的期限』『必然性と偶然性について』では一歩進んだ見方がとられている。
「世界は道徳的にもっとも完全」であるが、良くないことは起こる。それは一見してそう見えるが、「部分はかき乱されても全体の調和が破壊されることはない」しかし全体が良ければ部分はどうでもよいというわけでもないらしい。個人の善にもできるかぎり考慮が図られねばならないと言っている。
結論として彼は「災難はいっそう大きな完全性に到達するための近道」であり、「罪や悪を認めることが善をいっそう大きくするために適当」であるということに達する。「にがいものを味わったことのない人には、甘いものの味はわからない」のだ。
災難が起こっても、それはより大きな目的に達するための過程であって、それに耐えていこうというのが彼の善悪に対する意見である。
こう見るとオプティミズムは楽観的だが、それを信じることが日々の支えになる、とも思えてくる。

ライプニッツの個体概念によると、「現在は未来を含む」という不思議な思想が出てくる。それは運命論の様相を呈しているが、どこか異なっている。
『形而上学叙説』8節で、「神がアレクサンドロスの個体概念、すなわち<このものたること>を調べてみるならば、アレクサンドロスについて真に述べることができるすべての述語、たとえば、彼はダリウスやポルスを打ち破るであろう、といったようなことの根拠と理由をそこに見ると同時に、彼は自然死をとげるのかそれとも毒殺されるのかというような、われわれには歴史によってしか知ることのできないことを、ア・プリオリに知ることまでもできる。それゆえ、ものごとのつながりをよく注意してみるならば、アレクサンドロスの心にはいかなるときにも、これまでに彼に起こったあらゆることのなごりやこれから起こるはずのあらゆることの兆し、さらには宇宙において起こるいっさいのことの手がかりさえもある、と言うことができる」と彼は述べている。
つまり一人の人間の中には過去と未来がすべて詰まっているのである。
これを神のみが知れるのであれば運命論だが、そうではないということも主張される。13節ではある人がカエサルという主語と彼の幸運な事業という述語との結合をすっかり証明することができれば、彼の行ったことの理由付けがなされると言っている。
「主語と述語の結合を証明」というのがよくわからないし、歴史的なものと数学的な解釈が入り混じっているように思われるのだが、人物の行動の根拠はその概念に内在しているのである。何だか「カエサルが禿頭だったことを見れば、彼が暗殺されるということがわかる」と言っていたエリファス・レヴィが思い出される内容である。
ここまでなら「人物から行動がわかる」ということでしかないが、どうもライプニッツは人間は未来をはらむが、同様に万物も未来を含み、宇宙全体を表出していると考えていたようだ。
「私たちの体は、すべて星の物質でできている。私たちは、きわめて深い意味において“星の子”なのである 」と言ったカール・セーガンの言葉に繋がるものがあるが、一方で宗教的でもある。
その根拠はモナドにある。モナドという要素において、万物は同一であり、一つには全体が含まれている。『モナドロジー』68節には「庭の草木のあいだにはさまれた地面や空気、池の魚のあいだによどんでいる水、これらは植物でも魚でもないが、じつはやはり植物や魚をふくんでいる」とある。
70節では、「どの生物の体にも、おのおのそれを支配するエンテレケイア(モナドと同一視してよいと言っている)があり、動物の場合、それは魂であることがわかる。しかし同時に、その体のどの部分にも、他の生物、植物、動物がみちていて、そのおのおのが、またそれを支配するエンテレケイア、ないしは魂をもっていることもわかる」と述べている。
こうして部分の中には全体があり、無限に分割されると言っている。すると「モナドには窓がない」「モナドは分割できない」という先の定義とぶつかってくるが、どれをモナドとみなすのか、より詳しく見ていく必要があるだろう。
彼の宇宙論は、このように非常に大きな広がりをもっていくのである。

これでライプニッツについて、一通りの考察を終えることができたように思える。まだ触れていないのが重要な概念である「共可能」についてだが、これはそれを扱う『24の命題』をまだすべて読み終えていないので、その後に考えてみたい。
神学と科学がせめぎ合う中で両者について道を拓いていこうと考えた人物、それがライプニッツである。
posted by あしがる at 16:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 読むという病R | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今日はありがとうございました。24の命題を最後まで読み終えたら、また春にでもゆっくり会ってお話ししたいですね。今度はちゃんとライプニッツについて議論できるようになりたい…

陰ながら応援しています。
Peace
Posted by bystander at 2009年08月05日 01:59
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