2009年07月30日

機械じかけのわれわれ―ライプニッツ

ライプニッツはわれわれがあまり触れる機会のない人物である。何せ岩波文庫に著作が収録されていない。いや実際はあるらしいのだが五十年前のもので絶版である。筆者などはライプニッツを天文学者だと思っていたのだが、何と間違えていたのだろうか。
彼を哲学者として見るとき、頭に留めておきたいのは彼は数学者として非常な功績があるということである。数学畑の哲学者というのが存在する。ライプニッツとフッサールはその代表だし、カントールやゲーデルも哲学的問題に言及している。チャールズ・ドジソン、つまりルイス・キャロルも哲学的な数学者かつ小説家である。
数学と哲学、確かなものと不確かなものを求める正反対の学問だと思いがちだが、現在ではそれが結びついているし、過去においても不可分のものであった。そもそもいろいろな学問は哲学から出てきたのである。
彼らの最大の武器は「論理」および「証明」であってその過程が明白なことである。スピノザのエチカは実に難解だがライプニッツに関してはそんなことはない。
では彼の著作から彼の意図していたところを見ていこう。文章はほとんど中公クラシックスの『ライプニッツ』によるものだが、『24の命題』については授業でラテン語から訳したものである。

まずはよく取りざたされるライプニッツのオプティミズムについてである。これは「この世界は最善である」という言葉に集約される。そして彼の「最善」とは「最完全」を意味する。
『モナドロジー』53から54節にはこうある。「神のもっている観念のなかには、無数の可能な宇宙があるが、現実にはただひとつの宇宙しか存在することができないから、あれではなく、これを選ぼうと神が決心するためには、それなりの十分な理由がかならずある。」「そしてその理由は、適合、すなわち、これらの世界がふくんでいる完全性のうち、どれが一番すぐれているかということのなかにしかない。」
つまり前提として神がこの宇宙を創ったということがあり、それがどんなものにするか選択する際に神ならば最善の可能性を選択しただろうから、現に宇宙は最善なのである。
そして最善、最完全とは「最も多いこと」をも意味する。これに向かう傾向があることは自然法則の観察から導き出される。円は同じ外周で最も多くの面積を含むゆえに完全である。雨粒も同様に最も効率的な形、球をとる。これと同様に、世界にもそうした最善へと向かう志向性があるとライプニッツは考えているのである。『事物の根本的起源』において「最少の費用で、最大の効果が得られる」ようなものだと言っているが、これは実際自然界に見られ人間も少なからず従っているようなルールであり、この見方は神とは違う方向からのアプローチだといえる。
どうもライプニッツにはアプリオリかつアポステリオリに同じ結論を導き(どちらが先かわかったものではないが)、それがベストだと考えるという傾向がある。
しかし最多、多様性を賞賛することはグールドなどの生物学の見解にも繋がるところがあり、見るべきところがあるのではないかと思われる。
一方で彼は悲惨な三十年戦争直後にドイツで生まれており、オプティミズムが単なる楽観主義のはずがないという見解もできる。

さて、彼の神概念について触れなければいけないだろう。これはいろいろな著作で実に明快に定義されているもので、一言で言うと「第一原因論」に基づいて存在する神なのである。
概要は以前訳した「神の存在の何百もの論証」の2番を見てもらえばわかると思うが、ここでは『24の命題』第3節から彼の発言を引用しよう。
「さてこうした存在者は必然的であらねばならない。さもなければどうしてその存在者がないのではなくむしろあるのかという原因がさらにその存在者の外に求められるべきである。これは(その存在者は必然的であらねばならないという)仮定に反する。だからかの事物は究極的な事象の根拠である。つまり一語で言うと<神>と通常言われるものだ」
実にややこしいが、事象には何らかの根拠があると考え、その根拠にはそのまた根拠が、と遡っていったとき最後にあるものが必然的な存在、つまり神だと言っているのである。
この神はなんら体験的なものを必要としない存在であって、神と対話したり、現在の事象に関与したりということができるものではない。ほとんどルールによって規定される、機械的な神である。
そして神が機械なら、人間もまた機械である。『モナドロジー』64節には「生物の有機的な体は、どれもいわば神の機械か、ある種の自然の自動体なのであって、人工のどんな自動体よりも無限にすぐれている」とある。
人工と機械の神の機械の違いは、同節で「(人工の機械は分解するともはや機械ではなくなるが)自然の機械、つまり生物の体は、それを無限に分けていってどんなに小さな部分になっても、やはり機械なのである」と言っている。なんだか小さなナノマシンや液体金属が結合して一つの個体を成しているSFの機械を思い起こさせる。
彼にとって重要なのは「分解しても機能する」もしくは何らかの性質を持っているという要素なのである。これは次に述べるモナドの話へと繋がっていく。

「モナド」とはあまり意義深い概念ではない、と言ってしまうと悲しいが、実際その後の無視されっぷりを考えるとそう考えたくもなる。ショーペンハウアーの「意志と表象」並みに二十世紀では出番がない。両者に共通している点は、ニーチェが執拗に否定しているところである。
それはともかく、解説に入ろう。まずモナドと古典的な原子論が違う点は、モナドは限られた根本要素ではないという点である。つまり熱冷乾湿といった属性ないしアトムとは違うのであって、一つ一つのモナドに名前をつけるということはしていない。モナドは複合体を作る要素で分解の心配はないのだが、だからといって「水のモナド」と「土のモナド」が組み合わさって人間、などそういう考え方はしない。
それは単一な実体を区別するための標章のようなものである。実際ライプニッツが原子論に不満を持ったのもそこであって、それではある実体と別の実体を区別できないではないかと言っているのである。区別できないことが良くないことであるのは先ほど述べたとおりだ。
だからモナドには性質があり、それは他者と交換不可能なものである。「モナドには窓がない」とはそういうことだ。
そしてモナドの独自性を薄める発言をさらにライプニッツはしている。『モナドロジー』8節で、「創造されたモナドは、すべてこれ魂と呼んでいいが(...)その表象がもっと判明で、記憶を伴うものだけを、魂と呼ぶべきであると思う」つまりモナドはすべて表象を伴うのであるが、モナド+記憶が魂なのである。
実際『形而上学叙説』26節で「魂が戸口や窓をもっているかのように考えるのは、われわれのもっている悪い習慣である」と述べており、これは『モナドロジー』7節の「モナドには、そこを通って何かが出入りできるような窓はない」という部分と非常に類似している。前者の著作が後者より幾分か古いことを考えると、モナドとは魂の概念より派生したことが伺える。この点でニーチェがモナドのことを「魂の原子論」と呼んだことは間違いではないと言えるだろう。
ここに神を付け加えると、彼の根底要素の位階が完成する。それは精神、魂、モナドという順序であり、前者は後者の上位にある、もしくはより多くの要素を含んでいる。
精神について、彼は「精神つまり理性的魂」と言っており、『モナドロジー』83節では「一般的に魂は、被造物から成り立っているこの宇宙の生きた鏡とか、似姿であるが、精神はさらにすすんで、神そのもの、自然の創造者そのものの似姿である」とある。
精神において、神を考え、触れることができるのである。ライプニッツは動物にも魂があると考えていたが、動物と人間の違いは精神、というよりもむしろ神を考えられるかどうかにあると思っていたようだ。

以上で彼の根本概念をまとめあげることができたはずである。
ではそこから世界に対してどのような解釈が生じるのか、道徳や善悪についてどう考えているのか、そして「現在は未来をはらむ」ということはどういうことなのかについて次回触れていこうかと思う。
posted by あしがる at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 読むという病R | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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