2009年07月28日

ピアノ熟達のための素人教本

ピアノを習っていた期間が、両親のうち片方がいた期間より長くなってしまった。
現在においても圧倒的に技術(というより練習量)は足りないわけだが、理論面においては長年の蓄積が意味を成している。
そこで、素人なりにピアノの練習とはどうすればいいのかを述べてみたいと思う。目標は「もはやレッスンに通わないでもピアノができる」である。まったくやったことがない人でも、これを読めばピアノの練習方法、ひいては音楽そのものがわかった気になるだろう。

レッスンの目的について
高校生などがバンドをやる場合、基本的に誰かに習いに行くことはしない。一方ピアノはレッスンに通うことが当然のようになっている。では何のためにレッスンに通うのか。その答えは二つある。
一つは定期的にピアノを弾くことだ。これはもうあからさまにやる気が希薄なのが前提の言い方だが、毎週弾かされることによって技術が衰えるのを防ぐことができる。前述のバンドはこの点積極的なためにレッスンは必要ないわけだ。
第二に、これが肝心なのだが、主に楽譜に書いていないことを教わるためにわれわれはレッスンを受けるのである。
楽譜に書いてあることを正確に再現するだけならばMidiファイルに打ち込むだけでよい。そうやって作った音源に欠けているものこそ、レッスンで習うべき事柄なのだ。

楽譜に書いていない事柄について
ではどういうことが楽譜になくて重要なのか。それはつまりピアニストにとって「暗黙の了解」となっていることで、それを自発的に取り入れられるようにするためのレッスンなのである。
具体的には、「強調すべき音」のことが挙げられる。
左手で三つの和音を、右手でメロディーを弾く時に、すべてを同じ音量で弾いたら三対一で和音が強くなってしまう。それでは曲の目指しているものから外れるために、メロディーを強く弾くことが必要とされる。しばしばレッスンにおいて注意されるのもこの点の不徹底である。
だから、メロディーを意識してそのベロシティーを上げるだけでMidiファイルの音楽もより理想的なものに近づく。
その他に習うことは指使い、テンポ、ペダリングなど数多いが、次にペダルの使用について取り上げる。

ペダルについて
中学の音楽の授業の後、モーツァルトのトルコ行進曲を弾いた人がいた。それは圧倒的な存在感を持って周囲の耳を惹きつけたが、その秘密は何のことはない、ペダルを踏みまくって演奏していたからだ。
乱暴な言い方だが、ピアノ演奏において濁らない程度にダンパーペダルを踏む、つまり前の音を止めずに延ばす、ことをするだけで流麗な演奏に聴こえる。一度に鳴っている音が多いのだから当然である。
このことはペダルの踏み方を覚えればうまいように聴こえることを意味する。一方それは他の繊細な表現の妨げにもなる。うまくいっているように聴こえるため一音一音の努力を怠るからだ。より良い演奏のためには、なるべくペダルに頼らず音を出す練習をする必要がある。
次に、習うことの中で最も難解かつ本質的な、力の加減、弾くときの姿勢について考えてみる。これはピアノの極意ともいえるものである。

ピアノの極意について
レッスンで指摘されることの多くが、「自然に弾く」ということに関するものである。しかしこの語法は実に厄介なものである。
誰かが「自然」と言うときは、「恣意的に定められた唯一のルール」を意味する。自分にとっては自分のやり方が自然なはずだが、それは不自然とされる。
ではその唯一の自然とは何か。これは思うに、「あらゆる演奏を最小限の動きで行うこと」なのである。
ロックにおいて、大げさに体を動かして演奏することに文句をつける人はいない。しかしピアノは違う。目指すべきものが「最小限」だからである。
これは武道などにおいて聞く理論でもある。振りかぶるパンチより、そのまま繰り出されるパンチのほうがボクシングの素養が感じられて怖いとも聞く。それと同様に、あたかも何の努力もしていないかのように困難な演奏を達成するのがピアノの極意なのである。
具体的には、遠くの音へ跳ぶときもそれを感じさせないように瞬間的に移動する、スケール(音の列)を弾くときもどの指も差がないように弾く、などである。
これらのただ弾くのとは違う「不自然な事態」が「自然」になるまで努力を重ねるのがピアノを熟達するということなのだ。
結果、ちょっと動いただけで相手が倒れる武術家のように、ほとんど指を動かさずに弱い音から最強音まで演奏できるピアニストが誕生することになる。これがピアノの完成である。
続いてレッスンを行う際に妨げとなるさまざまな事柄について解説を加える。まずは精神的な問題についてである。

集中について
これはたぶんあらゆる鍛錬に共通することだろう。何かをうまくやるために集中するとはどういうことか。これには個人差が大きく、最善の方法を述べることはできないが、一つの事例として語らせてもらおう。
いかにもありがちなことだが、集中するということについて、以前は「一つのことのみを考える」ことだと思っていた。ピアノを弾くなら曲のことのみを考えるのである。雑念さえなくせば集中できると思っていた。
しかしこの「一つのことのみを考える」ということを考えることが、いわば不自然な行いであって、集中から程遠いことが次第にわかってきたのだ。
一つの見解として言うのだが、集中はそういった努力を放棄した先にあるようだ。「自分の思考の操作を手放す」といったところだろうか。結果として全然関係ないことを想起していたとしても、先ほどの不自然な集中よりは効果が上がるものである。桑田乃梨子の『卓球戦隊ぴんぽん5』の主人公が考え事をしている時の方が卓球がうまいという能力を持っているのもこういう集中の特性を表現しているのではないかと思える。
次からはピアノに特有の問題、まずは暗譜について取り上げる。

暗譜について
暗譜はピアノレッスンの一つの課題である。曲は弾けても暗譜ができないためにつまずいたことが少なからずあった。多くのオーケストラ演奏者が楽譜を見ながら演奏することを許されているのに、ピアノについては暗譜が必要なのはなぜだろうか。
それは暗譜こそが、曲を習得し、レパートリーとして記憶する手段だと見なされているからである。この考えは正しい。見て完璧に弾けても暗譜していない曲はすぐに忘れてしまう。
これもやはり例の極意に基づいているように思われる。「楽譜があろうとなかろうとベストな演奏ができる」というのを目指しているのである。
暗譜のためには集中とは逆の要素が必要とされる。「指だけではなく頭で記憶する」ということだ。指暗譜はきわめて危険である。その場のノリに任せているところが多いからだ。そうではなくて、片手ずつでも弾けるほどしっかり記憶し、任意の場所から弾き始めることができるようにするのが、暗譜への最善の道のりだろう。
技術面はこれくらいにしておいて、手段の話に移ろう。演奏される楽器についてのピアノレッスン界の見解である。

弘法は筆を選ばずということについて
この言葉は多くの場合に当てはまらない。どんなプロであろうと楽器を選ぶ。ヴァイオリニストは高級な楽器を選ぶし、有名なギタリストは愛用の名器がある。最悪の楽器でもいい演奏ができるように、とはならない。演奏会の際には最高の道具を用意すべきだという考えがある。
ピアノもそうである。グレン=グールドなどは椅子まで選んだ。電子ピアノと生のピアノの間についていえることは、楽器が違うと技術の体系まで変わってしまうということである。
生のピアノでしか再現できないタッチがあり、それを教えているのだから、それが実行できない楽器など言語道断ということになる。
つまりピアノ教室とは「生」ピアノ教室であったのだ。これを認識しておく必要がある。
最後に演奏に必要となるもう一つの要素、楽譜について見てみよう。

楽譜について
ピアノの先生は楽譜にこだわる。あれがいいとかこれはいけないとか言う。その根底には、自分の演奏している音楽が作曲者自身のもので、曲がって伝わってきてはいないかということを確かめたいという意図がある。
たいてい良くないとされる楽譜は原典から遠いもので、誰かが演奏のために解釈を付け加えたりしている。だから曲はその解釈者を通してしか理解できないことになり、本来の曲に触れられる割合が減る。それを嫌うために、原典を選ぶのである。その解釈は弾きやすいようにとの配慮からきているものなのだが、多くの先生はそれを排除して、一から曲に向き合うことを望む。
こういった傾向の根拠には楽譜の持つ絶対性がある。音源として発表される現代音楽と違い、クラシックには楽譜しかない。逆にそうやって根底となるものが明示されているために研究の対象になりやすいのである。
一方現代の楽譜はというと、ほとんどが音源から採譜されたものである。この力関係が逆転しない限り、現代音楽の研究は進まないであろう。研究とは結局形あるものしか対象にできないのだ。


こうしてピアノのレッスンを取り巻く事象について解説したが、結論として、ピアノレッスンとは一つの技術と知識の体系である。その多くを占めているのが練習だが、それ以外の部分は以上の通りである。
人間が透明に見えても通り抜けられないように、秘技がわかってもどうとなるものではない。
しかしこの内部からの密告によってその神秘のヴェールはいくらか取り除かれることだろう。それがわれわれのなすべきことなのだ。
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