われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。(…)
(四)最も後期の諸著作に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じ込むこと)。
このようにわれらのジル(ドゥルーズ)が語っているところのニーチェの晩年の著作、『アンチクリスト:キリスト教に対する呪詛』についてである。この書に関しては講談社+α新書より『キリスト教は邪教です!現代語訳「アンチクリスト」』という本が出ており、これはおよそ存在する中でもっとも読みやすいニーチェの本であることは確かだ。
しかし、原著を読み終えるにあたって、いくぶん曲がった書き方をしている部分があり(しかも肝心の部分をだ!)それがまたニーチェに対する誤った解釈を招きかねないので今回読み解きながらその点について指摘させていただく。
まずそもそも新書の表紙だが、こともあろうにニーチェの写真と、炎上する貿易センタービルである。これではまるでニーチェがこうなるのを指示した、もしくは望んでいるかのようではないか。ドーキンスが憤る通り、かの事件に宗教が関わっていることは間違いない。しかし、この本でニーチェが成そうとしたのは「キリスト教の過ちの糾弾」であり、それは「もっとよい宗教になってくれ」という願いでもある。それを示さずにただアナーキズムを煽るのは、いかにニーチェといえども苦い顔をするに違いないのだ。
この本においてもっとも重要な箇所が最初の章にある。原著第二節、「善悪」についての言及だ。ここでいう「善悪」とは彼が『善悪の彼岸』で文字通りあの世行きにした古い従来の意味のものではなく、独自の、新しい「善悪」概念を構築しようとしている。新書版はこうなっている。
「『善』とは私に言わせれば、権力への感情を、権力への意志を、権力自身を、人間において高めるもののすべてのものです。」
ここに最大の誤解が生まれうるのだが、この文をそのままに解釈するとおかしなことになる。「権力への感情」や「権力自身」を高めるとはどういったものだ?それはつまり権力者が乗っているロールスロイスや、豪邸を見て「おれも権力者になるぞ」と一念発起するようなことだろうか。
もちろんそんなはずはない。それは「悪」のほうを見てもわかる。
「それでは『悪』とは何かといいますと、弱さに由来するすべてのものです。」
こちらは理解可能だろう。弱さに由来する愚痴とか、妬みとか、諦めとか、そういったものが良くないと言っているのだ。これを裏返せば何が「善」かがわかるだろう。
結局は「権力」の単語がいけないのである。ドイツ語は「Macht」なのであって、第一の意味の「力」に置き換えてみると最初の文も納得がいくようになる。すなわち「力への感情」、「力自身」を高めるものとは何でもよい。おいしいケーキとか、面白い映画とか、頑張って輝いている人とか、元気が出るものを良いといっているに等しいわけだ。
信頼できる白水社版の訳を見てみると注釈にこうある。「権力(政治的支配欲のみを表す通俗の「権力」とは異なり、ニーチェに特有の形而上的概念で、「力」と訳してもよいが、自然的物理力とも異なるので、敢て「権力」に統一する)」つまりこの「権力」はニーチェ独自の用語なのであって、注釈なしに使うのは誤読を誘っているようなものだ。
もう一つ、「Macht」を政治権力と読むのを否定する証拠を挙げよう。彼は別の場所で政治権力を指すために「Gewalt(権力もしくは暴力)」という単語を使っているのだ。別の単語に同じ訳語を当てるほど愚かなことはない。彼の「Macht」を「権力」にするなら、注釈を入れるかもしくは「ごんりき」とでもルビを振って別の意味合いだと強調すべきなのである。
注意書きが長くなったが内容に入ろう。彼は「科学(Wissenschaft)」という見方からキリスト教がいかに害をもたらしたかを指摘する。それは「真理」の問題であり、それを神に独占させることによって人々の目を曇らせたことこそがキリスト教の罪だと言っているのだ。意外かもしれないがこれは科学者がよくやるような正当かつ月並みな宗教批判である。この立場において罪は宗教全体にあるわけだが、たまたま大勢力であるキリスト教が攻撃対象になっているのだ。
そして哲学を所詮はキリスト教神学の延長に過ぎないと看破する。これも今や当然といえる見方だ。なぜなら科学も、学問全体が宗教の中から分離して独立したものといえるからだ。神を証明しようとして世界の構造を解き明かした科学者は過去にはたくさんいる。
彼がキリスト教と対置させるのは「自然」であり「現実」である。第十五節(白水社版、以下も記載なしは当版)にはこうある。
「道徳も宗教も、キリスト教においては、現実といかなる点でも触れ合うことがない。」
この部分も非常に科学的な視点を持っているといえるだろう。
しかし、ニーチェがドーキンスらと違う点、言い方を変えれば彼の限界、は「まだ神を必要としている」点なのだ。つまり彼はキリスト教の「だめな神」ではなく、「新しい神」を持つことを提案しているのである。第十六節によると、
「自分に感謝するために、神を必要とする。――こういった質の神は、有益であり得るとともに、有害なものでもなければならない。友でもあり、敵でもあることが必要だ。人間は良いときでも、悪いときでも、神を讃えるものなのだ。」
これこそが、広く行き渡ったニーチェ概念を転換するものであり、ニーチェを宗教者として数えるべき理由の一つでもある。考えてもみよう。彼の理想としたツァラトゥストラ(ゾロアスター教のではなく、ニーチェ自作の)も宗教者であることには変わりはない。ニーチェは深く宗教的な人間なのであって、同じく道を外れたキリスト教信仰を攻撃したキルケゴールとの類似性を見る向きも、この点に関しては当たっていると思う。
ドストエフスキー『悪霊』のチホンも僧侶からの視点としてこう言っている。
「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです」と。
この傾向は、本書の中盤以降になるとさらに顕著になる。彼はルナンによる「救済者」の定義を批判し、「本当のキリスト教」はこうであった、と指摘し続ける。すなわち、
「『福音』とは、いかなる対立ももはや存在しないということにほかならない。天国は子供たちのものである。ここで説かれている信仰は、戦い取られた信仰ではない。」(第三十二節)
「『福音』の心理学全体には、罪と罰の概念が欠けている。報いという概念もない。『罪』、すなわち神と人との間の距離の関係はすべて、取り払われている――ということこそまさしく『福音』にほかならない。浄福というものは約束ごとではないのだ。それは条件に結び付けられてはいない。浄福は唯一の現実である。」(第三十三節)
ここでは今までの姿勢はどこへやら、どう見てもキリスト教弁護にしか見えない。正確に言うと、イエスの本当に成就したかったことについての弁護である。本文のタイトルの由来もここにある。
そして本書のもっとも感動的な、彼の宗教性を余すことなく表している一文がこの後続く。
「『天国』とは心の状態のことである。(…)『神の国』は待って得られるようなものではない。そこには昨日もなければ明後日もない。『千年』経っても来るものではない。――『神の国』は心における一つの経験である。それは至る処にある。それは何処にもない。」(第三十四節)
彼が問題にしているのは、そうしたイエスの行動および教えがいかに曲がってしまったかということであって、ニーチェはその原因をパウロに見ている。パウロがキリスト教を生き延びさせ、世界に広げるために好き勝手な解釈を付け加えてしまったというのだ。このイエス→パウロの図式は宗教においては成立時にしばしば見られることであり、日本では浄土真宗の親鸞→蓮如がこれに非常に近い。基本的に親鸞はイエスとかなり似た行動、教えをもたらした人物であり、先の第三十四節のようなことも話している。浄土は死後のためにあるのではないという話だ。蓮如はその潰れかけだった、というかそもそも宗派を興す気のなかった親鸞の教えをわかりやすくし、広めて回ったことから「中興の祖」と呼ばれる。
新書に目を戻すと、「キリスト教は女をバカにしている」という見出しでマヌ法典との比較の節が語られているが、これは拡大解釈に近い。ここではキリスト教が生を貶める過程で誕生を担う女性や子供を軽んじていると言っているだけであって、なにしろおかしいのはニーチェ自身がものすごく「女をバカにする」人間なのである。これは弁解の余地もない。
実際のところ、女性、や異性、に対してバカにするとかしないとかいうのは個人的な問題が大きく関わるのであって、経験を抜きにしてこれを語るのは不可能であると言っていい。ニーチェの場合女性はむしろ「絶対に勝てないもの」として敵視し、当時のフェミニズムなんかを攻撃していたように思える。
要するに「おまえらがこれ以上強くなったらおれには成す術はないじゃないか」という言い草なのである。すっぱいブドウだ。彼の経歴を見ればわかる通り、激しく活動的でかつ(間違った方向だが)優秀な妹に対しては最後まで(死後も)頭が上がらず、ルー=ザロメには彼女に鞭で打たれて楽しそうにしている写真がある。
さて、本著は後半はひたすらキリスト教の負の歴史の数え上げに費やされる。ローマ帝国の偉大な文化をだめにしたのもキリスト教で、十字軍は東方文化に対し至極失礼な振る舞いをし、ルネサンスはルターによって息の根を止められた、と。この辺りはいささか陰謀論めいており、すべての原因をキリスト教に帰するのは抵抗があるがとりあえずドーキンスの『神は妄想である』の内容と似ているところがある、と述べておこう。
その中で気になるのは第五十三節の、「血は、真理の証人としては最悪である。血は、最も純なる教えをも毒し、心の妄想とし、憎しみと化す。」というところで、これは宗教が「死」もしくはその他の危険を取り込むことによって人々の支持を得ることを危惧している。基本的に伝道者は教えを広める際に生命を危険にさらせばさらすほど、価値があるとされる傾向がある。自爆テロなどもこの考えで幾分か説明ができる。
問題なのはツァラトゥストラの「読むことと書くこと」の節に矛盾しているように見える有名な話が書いてあることだ。いわく、「すべての書かれたもののうちで私が愛するものはその血で書かれたものだけだ。血でもって書け。そうすれば君は血が精神であることを理解するだろう。」というもので、「血」を強力なものとみなす点では共通しているが、それが肯定的か否定的かが異なっている。
彼の批判するものはだいたい強大な力を持っている。同情も、ルサンチマンも、信念もそうである。その利を知りつつ使わないのが体制の批判者たるニーチェである。この場合は誘惑に勝てなかったと言うべきか、実際後者の文章は魅力的であり、取り上げられることも多い。あまりそれに熱狂的にならないようにすべきである。
もう一つ触れておきたいのは第五十五節、「嘘と信念」についての言及だ。ニーチェは「嘘と信念との間にはそもそも対立というものがあるだろうか」と言い、二つは同じものではないかと考える。それを理解するには嘘の定義およびパースペクティヴの概念を念頭に置くべきであって、嘘については「私が嘘と呼ぶのは、見えるものを見まいとすること、あるいは見えるように見まいとすること、これである。」という、見方を変えれば「信念」ともとれる言い方をしている。つまり視点の問題なのであって、「カラスは白い」という事実に反することを信念によって信じている人は、端から見ると嘘つきに見えるという、こういうことなのだ。
以前、人間は自分も信じられないような嘘はまずつかないゆえに嘘というものは存在しないと言ったことがあるが、嘘に見えるものは信念であるし、信念に見えるものは嘘でもある。あとは肯定的に受け入れられるかどうかや、その信念の持つ大衆性のいかんに左右されるのだろう。
もう一つ彼が言いたいのは嘘が「信念」として形を取っている状態ではもはや何を言っても嘘にはなりえないということである。信念のあるところに嘘はなし、とでも言えるだろうか。原著にはこうある。「(僧侶が)口にするような事柄の中には、嘘をつく余地がまったくない。嘘をつくためには、ここで何が真理であるかを、みずから決定することが出来なければならないからである。しかし、そんなことは、ほかならぬ人間には出来ない。出来ない以上は、僧侶は、神の意を代弁する口たるに留まるのである。」
最後に、冒頭で述べた政治権力としての「権力」について、それについて書かれている章を狡猾にも飛ばしたと言われないために取り上げておこう。本書でもっとも長い、第五十七節である。
ここは思わず目を背けたくなるような箇所であり、実に差別的な政治体制が説かれている。カースト制度を「生そのものの最上の法則を定式化している」と呼び、民衆は三つのカテゴリーに分類されるべきだと述べている。選ばれたエリートと、それを助ける法および力の番人と、その他大勢である。エリートは特権的なものであって、精神的に優れていなければならないと言っている。
ここで気づくのは、これは厳密なカースト制度ではないということだろう。なぜなら「生まれ」という要素がまったく触れられていないからだ。ニーチェはどうやってこの三つに人間を分類するかについて説明していないし、説明できないのだろう。
だからこの制度はカーストというよりも中国の天子思想、すごく徳の高い人間がどこからか出てきて、国を支配したらいいじゃないか、というものに近いように思える。そしてその天子を誰が決めるかという問題は未解決のままである。
もう一つ、下層民に対してもフォローがなおざりである。カーストにあるように当然人民統制のために全ての権利を奪われた階級を作るべきだと支配者なら考えるだろうが、ニーチェはその他大勢はまあ好きにやってくれと言い、その「中庸さ」は上部の層を維持するのに必要だとまで語っている。そしてその大勢は中庸が幸福であり、歯車としてうまく働く役割を果たしている。
これはむしろ危険な社会制度というよりは、現代に対する一つの不気味な予言としか思えない。「一億総中流」というのはまさにこれではないか。誰もニーチェの教えに従って革命など起こしていないのにこうなってしまったのはどこに責任があるのか?
したがってニーチェのこうした提言に対し危険思想だ、とか悪魔的だ、とか批判するいわれはどこにもない。ただ彼はその状態を赤裸々に描いているだけなのだ。すべきことはこの指摘を無視せず、問題だと思ったら改革すればいいし、これが理想だというなら(今や過去のものだが)甘受すればいいだけのことだ。
総じて、ニーチェほどいろいろなことを言い、さらにそれが曲がって伝わっている人物はいない。新書サイズの本一冊ですら、これだけ多くのことが出てくることからもわかるだろう。
この本でも他の本でも、彼が成し遂げ、成し遂げられることを望んでいたことは一言に集約される。それは『アンチクリスト』の最後の一文でもある。すなわち、
全ての価値を転換せよ!
2009年03月25日
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