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「真の音楽」の定義。――音楽の本質というものは、聴覚以外の要素を排除するとすれば一つということになるだろう。だがしかし、不思議とそういった「純粋音楽」が芸術として成立している例は見られない。どんなライブでも、目をつぶって聴くことを要求されることはなく、オーケストラもオペラもゲーム音楽もビジュアル系も、最後のはその名前からも顕著だが、視覚やその他の感覚に拠るところが大きい。だが逆に、演奏対象がいなくてもオーディオやMP3プレイヤーで音が作れるようになった現代では、聴覚要素だけの音楽を考えやすいといえるのではないだろうか。そのような音楽の良いものとはたとえば、そこら辺のオッサンが歌ってもすばらしいと思える歌、などだ。なかなか難しい基準なのがわかるだろう。
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目に映るものを第一とする支配的傾向。――それと関連して、古今東西のほとんどの人は視覚イメージに大きく頼りすぎているように思える。たとえば偶像崇拝の禁止などは、音の中に神が見出せる人にとっては何の締め付けにもならないはずだ。「心の中の神」VS「目に見える神」という対立関係はあまりに単純に思える。音や匂いの中に神がいたっていいはずだ。
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今日の一言。――「圧倒的な情報量にどっぷりつかると、画期的な発言に繋がることが多い。」発言者はピーター・アトキンス。
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ちょっとした話の種。――金魚が水面で口をぱくぱくやっているのは誰もが見たことがあるだろうが、それは酸素を取り込もうとしてだと説明されるだろう。すると金魚は肺呼吸をしていることになる。これは意外と驚くべきことではないか?
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誰もが自分を基準にする。――考えてみるとわかることがいろいろある。切符の販売機の「投入金額が不足しています」の執拗な音声にいらいらさせられることは多いが、あれは画面の見えない人のための案内なのであって、あんなものはいらないなどと文句を言う人は共感能力に欠けているということになるだろう。
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騙され心理学。――そこらで手に入る心理学の本もしくはマンガなどでよく出てくる「釣り橋効果」というものがあって、相手に好意を持たせるテクニックだと言っている。しかしなぜ逆の可能性、相手に対する興奮をその場の興奮と取り違えるケースについては述べられていないのだろう。つまりドキドキするのはジェットコースターに乗ったからであって隣の人のおかげではないと思うような。本に騙されて泣きを見る連中の顔が目に浮かぶ。
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小説の難しさ。――小説はツアーの旅行に似ている。奈良の大仏のような目的地にたどり着ければその道中はどうでもいいというものではなく、行って帰ってくるまでの過程もツアー客=読者を楽しませなければいけない。別におしゃべりに夢中で肝心の大仏=テーマはほとんど素通りでも面白いものは面白いのだ。
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超困る日本語の変容。――「超人」という単語の誤った取り上げられ方には以前も触れたが、これはそもそも「超」が「メタ」のような「〜より上部の」という意味を失っているのが原因のようだ。「超現実」は「すごいリアル」という意味ではない。だから「超人思想」のような妙な使い方が発生するわけだ。ウォーズマンとかぶらないようにするためにも(この理由はわりとどうでもいいが)ニーチェの「超人」は別の単語にすべきだ。だが「外人」「上人」はもう別の意味でふさがっているし、「乗り越えられた人」を表すよい表現はなかなか見つからない。
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魔王に気をつけろ。――最初に訳した人の変な訳といえばシューベルトの歌曲で有名な『魔王』もそうだ。あれは原語から考えるとせいぜい「樹王」ぐらいが適切で、その大げさな響きで子供時代インパクトを受けている人も多いようだ。ちなみに魔王というのは悪魔と同様西洋的な単語だ、と思うのは間違いである。アスモデウスやバアルと並んで、日本にも魔王がいた。山ン本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)と名乗ったやつだ。なんとも親しみやすい名前の魔王ではないか。江戸時代の人も捨てたもんじゃない。
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効率化のその先。――一つの比喩として興味深い話をしよう。カタユウレイボヤというらしいciona intestinalisは、幼生のころは運動をして栄養を採るので脳を必要とするが、いったん適所を見つけて固着生活に入ると、エネルギー面で負担の大きい脳を自分で食べてしまうという。これが何を示唆するかはもうわかるだろうから詳しく解説しないが、カタユウレイボヤにならないようにとだけ言っておこう。
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