2009年02月19日

まぬけのウィルソンのカレンダー:2月

中休み。

51
科学の創造性について。――われわれはニュートンや、ガリレオに比べてはるかに頭が悪い。彼らの特筆すべきところは、常識的な感覚に反する物事を証明したことである。その実験は、今見てみると誰でもできそうなことだが、そこに到達する信念は容易なものではない。例えばガリレオ。重いものと軽いものを持ったときに、重いほうがより強く下に引っ張られており、その結果落としたときの速度も増すと考えることは、慣性の法則から言ってもごく常識的なのではないか?重いほうがたくさん力が加わっているように見えるのだから。それを疑ってみるということは並大抵の発想ではない。同様に、見て観察する限りでは太陽は地球の周りを回っているに決まっているのだ。それが逆だなんて、どうして思いつけよう?地面は微動だにしない(ように感じられる)というのは常識だ。綿密な観察を続けて決して地動説を認めようとしなかったティコ=ブラーエをわれわれは笑うことはできない。科学の発展に重要なのは発想の飛躍と異端の考えへの信念であり、それは詩や文学の創造に比肩しうる(それ以上だと思う人もいるだろうが)ものである。

52
情報という概念の使い方。――今まで何と言って表現したらよいのかわからなかった物事を説明するちょうどいい言葉を発見した。それが「情報」である。それは価値ある情報と「冗長」なものとの区別によって知識の新しさを判断するやり方で、デジタル技術などはこれを基にしている。例えば「赤信号が青信号に変わった」は冗長な文である。「赤信号が青に変わった」もしくは「信号が青に変わった」と重複する情報を省くことによって効率化を図ることができる。しかし、冗長とは無駄ではない。単なる「青に変わった」になるとほとんど意味が取れなくなってしまうように、繰り返すことによってエラーを防止する役割を冗長性は持っている。伝えるうちに一ヶ所読めなくなっても別の部分に照らし合わせれば復元できるわけだ。さて、何が言いたいかというとわれわれは日常で得ている情報の価値をもう一度計算してみるべきなのだ。テレビでも映画でも冗長なものはひとたび理解すればもう繰り返し見る必要はない。これが顕著なのはジャンプの漫画だ。いくらかのパターンを見つけると、ほとんどがこれによって説明できてしまう。「友情努力勝利」とか「誰かが死んだらパワーアップ」とかである。その外見のみ異なり内実は大差ない様子はあたかも品種は様々なのに種としては同じであるイヌ(Canis familiaris)のようだ。とにかく似たようなことが書いてある本は読む必要がないし、同じことの繰り返しのテレビは見る意味もない。この文章も冗長、というより余計な情報を書きすぎているのでまとめると、「無駄なものはない。ただ冗長があるのみ」ということだ。

53
笑いの錯誤。――芸人のお決まりの持ち芸というものには、原因と結果の錯誤が働いている。ある意外な行動、言動をして笑いを取れたことがその意外性ではなく、その動作そのものに面白い要素があったと勘違いするために、流行の持ち芸が出てきてしまうのだ。相手がこうすると思っていてその芸が出ることには意外性も何もない。ただ「以前も面白かったから今回も面白いのだろう」と思って笑っているだけなのである。笑いとは頭の中の常識が意外な事態によって侵食されることに対する反応のひとつである(例えば「バイトの面接」というシチュエーションで変な行動をとる人物が登場するなど)。だが大勢の人間はそうでない状況でただ流れにより、周囲に合わせて笑っているだけなのである。最近のマンガは『ギャグマンガ日和』のエピゴーネンがやたら多く見られるが、これもただあのつっこみ方が面白い理由だと勘違いして形式を真似ているだけであり、中身のないものである。大事なのは意外性だ。

54
笑いについて。――毎日の生活で笑えない人は喜劇を求めるのかもしれないし、悲劇を好む人は単に日常で悲しまない人なのかもしれない。

55
手の込んだ言い逃れ。――哲学的な思考はうまくすると、とても便利に人を煙に巻くことができるが、それは現実に直面した瞬間に効力を失う。例えばこうだ。数学の教師に対して「私は三角関数がわからないが、わからないことを知っている。しかしあなたは何がわからないか知らない」と言えばその場は言い逃れられるかもしれないが、三角関数のテストで点が取れないことに代わりはない。「抜き打ちテストは存在しない」のパラドックスもこの類型だろう。喜劇の種にはなるかもしれないが。

56
自分たちを「平等」と考えることの危険性について。――『学問のすすめ』が言っていることの焼き直しだが、平等とは結論でなく出発点であるべきものである。「誰がなんと言おうとわれわれは平等」という考えを固辞することは、現実の差異から目を逸らせる危険な傾向である。手を繋いでゴールする徒競争の都市伝説のように、最終的な位置において平等を強調することはまったく意味がない。「君は不利な立場にいるかもしれないけど、人間は平等なんだからみんな一緒だ。我慢しよう」などと、平等を強い者が権利を正当化するのに使ってはいけない。

57
差別の起源について。――それを考えるのには、子供に目を向けるとわかりやすいだろう。子供は優れた比較能力をもっており、異質なものを発見すると指摘せざるを得ない。家庭環境が異なるとか、どもりがあるとか、行動がぎこちないなどの変異をありのままに報告するために、それが差別、子供の場合はしばしばいじめへと繋がるのである。大人の社会にこれが少ないのは、ただ正直さに歯止めがかかっているからに過ぎない。よって差別それ自体は自然なもの、本能的なものといえるのだが、それは差別の存在を容認することを意味しない。自然なものに逆らってこそ文明なのである。

58
文系の危険。――いわゆる「文系」の中には、ものごとの仕組みを驚くほど理解しようとしない人がいる。それは何もパソコンなど機械に限ったことではない。極端な人はリュックサックの長さ調節の仕組みすらその範疇に入るのである。こういった人は逃げがうまく、「コンピューターリテラシーがないから」などと自慢そうに言ったりするが、リュックサックの例からわかるように、そういった人間はパソコンの登場以前にもいたのだ。もちろんそんな思考法による利点も多いのだろうが、もう少し自己を認識してほしいものである。

59
陰口の価値。――抱いた悪意を解消される方法として、陰口というものは大きな役割を果たしている。この一見陰湿なやり方は、その悪意が蓄積されて爆発するのを第三者に話すことによって未然に防いでいるのである。「○○課長のバカヤロウ」と言うのを我慢してそれが憎しみに変わるよりは、同僚がそれを聞いてやるほうがいいのである。

60
信用されるには。――人に信頼されるのに必要なことは、安定していることである。いつ頼っても悩みを落ち着いて聞いてくれるというような安心感が信頼を生むのであり、連絡してもちゃんと返事ができるかどうか、生きているのすら危うい人間は信頼されない。しかし安定しているというのは把握しやすい、シンプルな人間だということも意味しているのであって、そうでない人のほうが深みがあり面白い、ということもあるのだろう。
この記事へのコメント
最後のはすごく身近で共感しやすい!
メールの返事が早い人ほど安心できていい奴だなあと思うけど、メールの返事が遅い(か返事をしない)人ほど刺激的で魅力的な場合が多いね。
Posted by 小林 at 2009年02月21日 01:11
いやあ、他のも身近な話題を考察しているつもりだけれど・・・
その「メールの法則」は間違いなく存在します。単純に、いつも暇な人間は話して退屈なものだし、多くの人と接する、スケジュールがいつも埋まっているような人間は強烈な魅力があるものです(人気のある人は自分から誘わなくていいから怠惰になるというのもある)。
でも最近思うのは、誰かと接するということはその人の影響を受けるということであって、大勢の人間に会う人はそれらの無数の影響によって個性というものが薄められてしまう、自分がなくなるんじゃないでしょうか。
その逆を見れば、日本も鎖国したせいで突飛な文化になったと言えるんだし。
Posted by あしがる at 2009年02月21日 04:48
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