2008年12月24日

うしろの世界を見たいなら 3〜4日目

続きです。

3日目の朝

 夢を見た。疲れているときは奇妙な夢になりやすいものだが、まさに悪夢だった。
 荒野にいた。見渡す限りの大地と青い空。どこまでも歩いて行けるように見える。果てを目指して走り出す。風を切って景色が飛んでゆく。しかし終わりは一向に見えない。空が赤く暮れてきても景色は変わらない。はっとして立ち止まり、座り込む。するとどこからか、声が聞こえてくる。「まともな人なら、もう一度繰り返したいなどとは望まないだろ?そんなことをするくらいなら、まったく存在しないことを選ぶ方がはるかにましだろ?」その声が聞こえた途端、もう立ち上がれなくなってしまった・・
 そして目が覚めた。覚めてもまだ夢の中にいるような気分だったが、次第に心が落ち着いてくると、2日目の出来事について思い起こしてみた。あそこにいた人物から世界は繰り返していると言われた。そしてそれは至極当然のことだと。
 確かに今思うとすべて終わって、その後何もなくなると考える方がナンセンスだ。よくアニメで攻めてくる宇宙人が地球を破壊しようとするのがおかしいのと一緒で、そんなことに何の利益もない。逆に、滅亡する世界を救うのは何となくできそうなことだが、滅んだあと再生するのをやめさせるなんてことはおよそ途方もないことに思える。見通しは絶望的だ。
 そして「今回も」と言っていたことから今までにも何度となく失敗しているのではないか?これが一億回目だったら今回の運命もまず決まっているのではないか?
 いや、まだ時間はある。それに他の人とは違い、繰り返すことに気付いているだけ、ループの外に出る可能性があるはずだ。彼の言う「資格」とはもしかして、そのことかもしれない。
 あの子供が絶対的な何かだというのはわかった。今日はどうにかしてあいつ以外から糸口を見つけて、裏をかいてやる。

殴り書き:昼
 また鐘が鳴る。それを聴くと、人の話し声がみんな同じ、機械じみた声に聞こえだした。注文を取りにきた店員がロボットのように感情なく話している。さっさとここを出よう。

3日目の夜

 希望が少し見えてきた。仲間が見つかった。それも同じ立場の、つまり繰り返しに気付いている人達だ。
 昼を過ぎ、もはや仕事に戻る意味を感じなかったので、携帯の電源を切って街を放浪していた。景色の歪んだ交差点に充満する人、映し出される宣伝、話し声は機械となって耳に届く。この光景も永遠に続いていくのか?
 そんな中で、スピーカーから演説が響いていた。路上の白いバンから発せられているらしい。この時期多いよな・・・と脇を通り過ぎた時、その文句に足が止まった。
「あなたたちは気付いてない。この世界は造られた偽りである。うしろにある世界こそ現実なのだ」
「このまま滅びを待つだけでよいのでしょうか。わたし達と方法を見つけましょう」この声は若い女性のものだった。
「世界が終り、再び繰り返すまであと4日しかないんだ!同志となる人は集え!」
 順番にスピーカーに語っている声の主、この連中こそ紛れもなくあの世界を見た人達だ。そう確信すると思い切ってその車に近付き、ドアを叩いた。
 演説が突然止むと中から疑わしげな表情の中年男性が現れた。スーツを着ているのでサラリーマンに見えるが服はしわくちゃで、禿が進行した髪は何の手入れもされていなかった。
 こちらが何か言うのを待っているらしいので手短にキーワードを話す。白いオフィス、座る子供、繰り返す世界、鐘の音、とそこまで言ったところで相手の表情は急に晴れやかになり、こちらを引き寄せると両手で肩をぽんぽんと叩いてきた。
「よく来てくれたね。また一人同じ境遇の人が見つかって嬉しいよ」中年男性は穏やかに話した。運転席にいる背は高くないが筋肉質の男が大きくよく通る声で続ける。
「昨日からやってんだけどよ、来るのは苦情ばかりで誰も仲間が来ねえの。通りにはこんなに人がいるのにさ」彼はいかにも活動家といった、仲間意識を植え付けるような喋り方で、説得などいかにも得意そうだった。
 とりあえずわれわれの集会場所に戻りたいが来てくれないか、と言われたので承諾し車に乗り込んだ。
 端から見てればこんなに怪しいやり取りもないだろう。例の共通事項さえなければ、決して道端で会った人について行ったりはしないものだが。何に参加させられるかわかったもんじゃないだろう。
 車にはもう一人、二十台位の髪の長い女性が乗っていた。彼女の説明するところによると、先ほど出迎えた中年男性は彼女らの所属する「うしろの世界解放同盟」という団体の発足者らしい。もう一人の威勢のいい男は間島といい、昨日車に乗り込んできて半ば強引に仲間に加わったという話だった。不思議と、彼らの話には正午の鐘の影響がほとんど出なかった。
 彼らの事務所は実のところマンションの一室で、中年男性、永倉の自宅らしい。何せ2日前にできたばかりで、場所を借りる時間もないから、と彼は笑って言った。
 そこは家具と本棚以外はほとんど何もない部屋で、唯一壁には絵画がかけられていた。その絵には海を臨む崖が描かれており、数名の男女がそこに立ち、海の向こう側から溢れてくる光を見上げている構図となっていた。
 既に部屋には一人の男がそこが音楽サークルの部室かのようにエレキギターを抱えて一心不乱に練習しながら待っていた。彼はいかにもバンドマンという無造作な外見の男で口ひげを好き勝手に生やしており、窪んだ目と痩せ細った体、煙草でかすれた声が見る人に忘れがたい印象を与えた。
「またもや、暗そうなやつを連れてきたもんだ」とギター男は開口一番皮肉を言った。俺のことはシュンと呼んでくれ、と言い(なんだか書くのが恥ずかしいがそのまま記す)、先ほど車に乗っていた女性、遠山千恵と一緒に今日ここへ着たばかりだと述べた。
「新しいメンバーも加わったことだし、改めてわれわれの目的を述べよう」全員がテーブルを囲んで座ったのを見ると、永倉が話し出した。彼は3日連続であの部屋にたどり着いてるんだぜ、と隣のシュンが耳打ちした。
「君たちも共通して体験していると思うが、われわれは不可思議な世界へ迷い込み、そこで世界が終わると告げられた。これは事実であって、その後この世界は新しく始まり、永遠にその円環を繰り返しているのだ。私も、もう何度となくこの苦しみを味わってきたのだと認識している」彼の隣では遠山が感心したふうに頷いている。どうやら永倉に非常な尊敬を抱いているようだ。
「しかし、その鎖を断ち切り、世界を変革する方法がないはずはない。われわれにはその資格があるに違いないのだ」世界を変革する、のところで聞いていた間島はおーっと歓声を上げた。
「その願いを同じくする仲間がこれだけ集まってくれた。君たちには感謝しているよ。一人ではできなくとも、協力すれば成し遂げられることはある。われらで、真実を見つけようではないか!」ここまで言い終えると彼は疲れたように椅子にもたれかかった。その後は自由に情報交換をすることになったので、事情を最も知っていそうな永倉に話を聞いてみた。
 それによると、あの白い部屋はそこの住人が「うしろの世界」と呼んでいる場所で、あらゆる日常の背後に常に存在していて、表の世界とは時間の流れは完全に独立しているらしい。私が思うにあの部屋は単なる玄関口であって、部屋の主の背中にあるドアを通った向こうにはもっと広く快適な、生活のできる空間があるのではないか、と永倉は語ってくれた。
「つまり天国みたいなもんなんだろ」と間島が口を挟んだ。「神サマが住んでいるところなんだから」
 その発言に対して彼は、あれを神と呼ぶのかはともかく、「うしろの世界」の秘密を探るのは最重要事項だろうと答え、遠山はそれを熱心にノートに書き写していた。間島が続けた。
「ともかく、ぼーっとしてたら俺らの記憶もみんな元に戻されちまう以上は、何とかしてあちらの世界に行かなきゃいけないわけだ」
「いや、昨日あそこにいた子供に気になるから奥も見せてくれって頼んだら、それはできないってあっさり断られたぞ」シュンが言った。
「それが何だってんだ。そいつをやっつけて、ドアをぶち破ればいいだけの話じゃねえか」間島が腕を振り回しながら叫んだ。
「それはできない。できないはずだ」永倉が静かに反論する。
「どうしてわかるんだよ。誰もやってみてないんだから、やらなきゃわからないじゃねえか」激して永倉につかみかかろうとした間島をなんとか惇が制止した。
「乱暴なことはやめてください。永倉さんの話を聞くと、すべきことはそれじゃなくて別の方法であの世界に行く手段を考えることだとわたしは思います」その考えに、永倉も無言で同意を示していた。
それじゃあ間に合うかどうかも定かじゃない、さっさと行動を起こすやつが成功するんだ、と間島は不満そうだったが、その場は一旦収まった。
 その後は雑談になっていったので詳しくは書かないが、ここまで活発に話し合ったのは久しぶりだった。全体的に彼らは今の世界に不満を持っており、恨みやら妬みやら否定的な思考に偏りがちだったが、そういった者同士で話が合うようだった。
 時間も遅くなったので帰るというと、永倉が送ってくれるというのでその好意を受けることにした。帰りの車の中、彼はしばらく押し黙っていたが、おもむろに自分の境遇について語りだした。
「私の人生は苦しみの連続だった。妻も子もおらず、冒険をするのが怖くて安易な道安易な道を選んできたので今となっては後悔の毎日だ。私には若さもない。ただこの人生の落日を繰り返し味わわされるのが現実だとしたら、そんな世界に期待できることは何もないと思わんか?こんな世界では、あれが欲しいとかこれをしたいなんて感情はさっさと諦めてしまった方が楽に過ごせるのだよ・・・」
 その気持ちはわかりますと答えると彼は弱弱しく微笑んだ。「一緒に『うしろの世界』へ到達しようじゃないか。心配せずとも私には確信がある。また詳しく説明するよ・・・」

 そうして明日も訪れることを約束して彼に別れを告げ、自宅まで戻ってきた。残念なことに今日は例の世界からはお呼びはかからず、3日目の活動はこれまでのようだった。
 今回得られたものは大きい。1日目や2日目のことは正直単なる夢か、妄想なのではないかと思うところはあったが、そうでなく、自分以外にもこういった事態を味わっている人間がいることが明らかになっただけでも励みとなるというものだ。
 あまり自分の考えを伝えられていないが、もう十分に書いたと思うので、ここらで筆を置いて続きは明日に託してもいいだろう。

4日目の朝

 昨日出会った集まり、「うしろの世界解放同盟」にはたくさんの人がいた。みんな共通して、ここではないどこかを求めていた。特に指導者的立場の永倉はこの生活と繰り返しに倦んでおり、もはやこちらの世界などどうでもいいような目つきで事象を眺めていた。
 彼らが求めていることはあの神出鬼没な「うしろの世界」の秘密を解明し、このループをなんとしてでも阻止すること。それは、こちらの考えていたこととほぼ一致する。
 ではああやって仲間を作ることでわかることはあるだろうか。一つ見えてきたのは、永倉が顕著なように、この世界に対して疑問を抱いている、別の世界の方がもっと素晴らしいのではないかと思っている人に「うしろの世界」は開かれる傾向にあるようだ。当然、昨日の次は今日で、今日の次は明日でと世界が続いていくことに何の懸念も持たない人はこういったことは信じもしないであろう。
 そして思い当たるのは、そういった中でも表の世界に対する嫌悪感が最も強くなった時に扉は出現していたのではないだろうか。このことは「うしろの世界」の核心に到達するための重要な糸口のような気がするので今日早速伝えてみることにしよう。つまり、この世界を憎めば憎むほど、もう一つの世界が近づいてくる。すると尚更この世界に魅力を感じなくなり、ますます「うしろの世界」に惹き付けられる・・・というのは何か後戻りのできない道のように思えるがそこを歩むしかないだろう。扉は叩いた者にのみ開かれるのである。

殴り書き:昼

 まるで耳元で鳴らしたかのような鐘の音がどこへ逃げても聞こえてくる。よく考えたら、こんな現象に見舞われている時点で十分異常なのに、もはやあまりおかしいと思わなくなってきているようだ。
 今日のはシンプルだ。世界が傾く。あまり極端に傾くようだと、真っ直ぐ歩くことも難しくなりそうだ。端から見たら、どんな人間に見えることだろう。
 これから、「うしろの世界解放同盟」の会合場所へ行ってみる。

4日目の夜

「うしろの世界」解放のやり方について対立が発生した。元々出会って間もない人達なので調和は望みがたいものだったが、目的は同じでも考え方というのは違ってくるものらしい。
 部屋に着くとにわかに険悪な空気が漂っていた。間島が独自の計画実行のために迅速に準備を進めていて、そのための道具がテーブルの上に並べてあった。カッターナイフ、ロープ、ジッポーの油とライター。すぐに手に入るのはこれだけだったらしい。その他に、スパナやバールなどの鈍器が手持ちのナップサックに満載されているようだった。
 これであとは「うしろの世界」へたどり着く方法さえわかればすぐにでもあいつをぶちのめしにいってやるのに、と得意気に語っているのを見て、朝気付いた「うしろの世界」の出現法則を伝えてみることにした。
 それを聞くと、間島は椅子から飛び上がって答えた。
「それだ!俺があそこに行ったのも、所属していた資本主義に反発する団体が解散しちまって、力を注ぐ対象が見つからなくて途方に暮れてた時だった」
「その見解には同感だ。俺の場合もだいたいそのような状況だった」シュンはそう言うと、周りを見渡し同意を求めた。遠山は黙っていたが、永倉はしばらくすると重い口を開いた。
「私もそのことはわかっていた。ただ、あの部屋から行くのでは駄目なんだ。彼の考えにふさわしい者にのみ扉は開かれる。彼は絶対者であって、力でもって反抗するのは愚かな行為だよ・・・」これを聞くと間島は依然興奮したまま、その喜びの半分を憤りに変えて怒鳴った。
「あんたはそれを知っていたのに話さなかったんだな?ええい、そんならもう何も期待しねえ。行き方はわかったんだし、俺が一人で片をつけてきてやる。あんたらはここでお祈りでも捧げてるんだな」そう言うとテーブル上の道具をかき集めだした。思い立ったら即行動の気質の持ち主らしい。
「待ちなさい。そんなやり方では救われない。真実はいずれわかる時が来る。それまではただ耐えなければいけないのだ」永倉が手を掴んで遮った。遠山はそれを心配そうな目で見ている。
「・・・俺には不思議なんだ」間島は急に落ち着くと、部屋をゆっくり歩き回りながらつぶやいた。
「あんたらは世界のルールが見えているくせに、そのことを一向に役立てようとしねえ。壁が見えているんだったら、見えている人が壁を壊すのが使命なんだよ。何か新しいものを組み立てるには、その前にあるものを破壊しなきゃいけないのは道理だ。体制と戦っても勝てないと思わせることがやつらの穏便に大衆を支配する便利な手口だってのは、今までの経験からわかってるんだ。この中にまだ心が死んでねえやつはいないのか?」そこまで言うと彼は周囲を見回したが、しばらくすると諦めて出口へ向かおうとした。すると部屋の隅にいたシュンがそれに合わせて飛び出した。
「ここにいても歌になんない日々を過ごすだけだぜ。そっちの方が楽しそうだ」こう言うと二人とも出て行ってしまった。永倉はそれを追っていき、部屋には二人だけが取り残された。遠山が口を開いた。
「ほんと、こっちの世界ではこんなことばっかりね。あなたは何がきっかけで『うしろの世界』に呼ばれたの?」そう聞かれたので前日までの経緯を話した。その後に彼女自身のことを教えてくれた。なんでも、長年付き合っていた彼に別れを告げられ、茫然自失だったところにあちら側から声がかかったらしい。
「繰り返しを知らされるまではまだ次があると思ってたんだけれど、残ってるのはあと3日よ?無理に決まってるじゃない。そうするとわたしの人生、1日目のあの悲しみしかないの。わたしってなんて可哀想な人なんだと思わない?」そう言った彼女の目は弱々しいが奥へ引き込まれる深さを湛えており、同情を誘うようだった。そこへ、永倉が静かな足取りで帰ってきた。
「彼らを止めることはできなかったよ。もはや私に同調してくれるのは君らだけのようだね・・・」彼はソファーに腰掛けると、ゆっくり話し出した。
「私の知識を伝えよう。『うしろの世界』に気付いたのはわれわれだけではない。はるかな昔から、現世を儚んだ数多くの人がそんな世界を夢見た」ここでその「昔」が存在したことが不思議になったので質問すると、現在目の前になくわれわれの記憶の中にある世界のことだと答えが返ってきた。恐竜も、アトランティスも、アポロ計画も、確からしさが違うだけで同様に過去として語られる出来事である。それらや先週までの行為がみんな作られたおとぎ話だったとしても問題はない、逆にこの世界でも記憶の中には過去は存在すると永倉は答えた。
「そうしてあまたの人によって考え出されたのが天国や、理想郷と呼ばれるものだ。さらに、ある宗教では万物は死ぬと転生して、永遠に生を繰り返すことになっている。どうだね、この世界とよく似ている考えだと思わないか?」残り二人は無言で頷いた。彼は続けた。
「彼らの考え出した思想はどんなパラダイムにおいてもこの世界の本質を見通している。それによると、そういった無限の繰り返しは苦である。どこまで行っても飢え、渇くばかりで満足することがないからだ。たとえ満足を勝ち取ってもまた他に欲しい物が現れ、その欲に追われ続けることになる。そんな苦役に抗うには、欲望を否定する他はない。そしてそのあらゆる欲望の根源が、『生きていたい』という意志なのだ。これがあることによって最初の渇が生まれ、その渇が次の渇を呼ぶ」彼は感情の薄い声でこれを語り、その教えをまさに身を持って実践しているかのようだった。
「われわれが『うしろの世界』に近づいているのはこの生きる意志を否定していることの表れであって、もはやこの世界で喜ぶことも悲しむこともなくなった時、完全に『うしろの世界』の住人となれるのだ」ここまで話すと彼は一息入れたので、静かに聞いていた遠山が、ここで疑問を差し挟んだ。
「そんな、わたしは喜ぶことはほとんどないけど、悲しみを感じなくすることはできないし、今でもまた楽しかったころに戻りたいと思っているんです。それじゃいけないのですか?」
「駄目だ。悲しみを無くすには、喜びをも刈らなければいけない」彼は首を振って答えた。
「でもそのためにはどうすればいいんですか?どんなに頭で考えても感覚は嘘をつけないから嫌なものを見たら嫌と思ってしまうし、可愛いもの、楽しいものを好きだと思う気持ちは無くせないの」それを聞いた遠山は声を高くして、必死になって尋ねた。
「君のその感情は肉体に由来するものであって、真実は肉体を超えたところにあるんだ。そのためには意志を否定し、見ず、欲しがらず、諦めなくてはならない」そこでそう言う根拠について尋ねてみると彼は、
「私は自分自身で感じるんだ。私は君たちよりもずっと多く、果てしない回数これを繰り返していることを。そうしてゆっくりと、繰り返しを否定する方法に近づいていったんだと思う。その結果として、不思議と以前の『うしろの世界』を推定した人の気持ちもわかるし、そのような世界に惹かれていった人たちは皆、私のような状態に最終的にたどり着いていたようなのだ」彼の答えは力強く自信に満ちていた。
「まあ焦ることはないさ。もう少し終わりが近づけば、ヒントを示すことができるだろう」永倉はお茶を入れ直しに席を立った。彼女はというと一瞬なにやらつぶやいていたが、すぐに黙ってしまった。
 しばらくの沈黙のあと、他愛もない話が続けて起こったが、ある時点で遠山が一言礼を言うと荷物を持って、玄関へ向かって歩き出した。そろそろ帰るころだと思っていたので、それに合わせて部屋を出ることにした。永倉は良かったら明日も来てくれ、そろそろ決着をつけねばならないだろうとだけ言い、玄関先で彼と別れた。
 何となく彼女と話してみたかったので辺りを探すと、遠山はエレベーターの奥にある階段を下りている最中だったので走って追いついた。彼女は以前エレベーターに閉じ込められたことがあって以来好きになれなくて、と少しだけ笑うと、すぐ陰鬱な顔になって話し始めた。
「今の聞いたでしょ?どうもわたしを阻んでいる最大の壁はそれなの。わたしは自分が不幸に思えてしょうがないのよ」彼女の固い靴音が階段に響いていた。
「昨日永倉さんに言われたわ。不幸というのはそう感じる心があって初めて存在するもので、感じるだけ損をしているんだって」そうなんでしょう、と答えると彼女は下りる速度に合わせるかのようにテンポを早めて話した。
「彼はこうも言った。確かに神がカードを配り間違えて、不利なものばかり押し付けられてしまった人も存在する。そういう人たちは手札を見ず、これ以上カードを引かないようにするしかないだろう、って」彼女は続けた。
「でもわたしにはそれはできないの。引き続けていれば、いつかはいいことがやってくるんじゃないかと考えてしまう。それが新たな苦しみの種だとわかっていながらね。永倉さんは、わたし達は似ている、だからきっと君も同じようになれるよ、と言ってくれたけど、残念ながら無理だと思う。わたしは人間が好きだし、わたしにはこの世界は輝きすぎているの」そう言うと遠山は踊り場で足を止め、空を見やった。その視線の先には宵の明星が明るく夕空に浮かんでいた。地面の傾きは治まっており、星は大気によってまたたいていた。
「あの金星が見える?素晴らしいじゃない。誰だってもう一度見たいと思うはず。それなのにこれが、これが最後かもしれない・・・」彼女は手すりに腕を乗せると背を向けたまま、しばらく見ているので先に帰ってくれないかと言った。だいぶ夜の寒気が強まってきていたが、彼女を残して一人階段を下りていった。
 一階に下りたところで見上げると、人影はまだ踊り場から顔を出しており、そのはるか上ではさっきと同じ星が何よりも強い光を放っていた。
 そのまましばらくは歩いて帰宅したが、今日もお呼びはかからなかったようだ。その理由はわかっている。この数日で何かが変化している。いろいろな人がいて、それぞれが何かと闘っている。ひたすら逃げている人もいるが、それも闘いなのかもしれない。
 残りの日数は半分となった。
posted by あしがる at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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