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苦しみのあした。――夜に絶望しているよりも、朝目覚めたときにどん底にある場合の方が憂慮すべき事態だ、といえる。どんな状況にあろうとも眠りは慰めを与えてくれるものであって、起きている世界が生き地獄の時は眠りが唯一の逃げ場となる。そうしてほとんどの苦痛は明日にはリセットされているはずなのだが、その処理能力が追い付かない場合朝にまで影響が表れてしまうのである。朝、最も気分の良い状態でこの程度かと実感するときの虚無感はいかほどのものだろう!メトロノームのある歌もこれを表現している。「朝が来てまた目が覚めた 瞬間に僕はうんざりした 一人きり歩いてくには 長すぎる夢世界だから」
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最初の女がもたらしたもの。――不幸というものの起源、パンドラの箱に対する非常に筋の通った解釈は『ヘラクレスの栄光W』でゼウスが語る言葉にある。それによると、かつて人間は苦しみのない世界に住んでいたのだがそれに感謝することを忘れ、驕りたかぶるようになっていた。そこで幸せというものを噛みしめることができるよう、その反対物を世に遣わせたのである。彼の言う通り不幸は何もない日常が幸せなんだという感覚を教えてくれる点において有益だが、残念ながらそのバランスがいつもとれているわけでなく運命を配り間違えることもある。確率論はどんな不幸でも人に振りかかりうることを証明している。コインを投げて20回連続で裏が出ることもいつか誰かには起こるのである。そして悪いことのあとにいいことが来るとは限らないのも確率の導き出す通りだ。不幸に遇った時、その埋め合わせの幸運が来ないからといってめげてはいけない。
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現代のタブー。――現在見られる宗教的な絶対物の最たるものといえば、国旗が挙げられるだろう。あれほど無闇に神聖なものはない。手軽に作れる上に、冒涜するのも簡単である。ここで大事なのは、それは生まれた時から国旗になるのを運命づけられているわけではなく、単なる布がある条件を備えた時に絶対のものになるということだ。リビアでは緑の布を踏むことすら禁忌かもしれない。
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手品の功績。――手品ほど、科学の発展に寄与したものはない。それの中身よりも、その概念がである。手品があるからこそ、不思議なものを見た時にこれは手品かもと疑うことができるのである。インチキとか、詐欺とか、そういう言葉の存在によって受ける恩恵はどんなに大きいだろう。不正の存在を知らない人は実に騙されやすい。
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器用さこそ重要。――優しさとか強さではなく、精神的な器用さこそ最も重視されるべき人間の能力である。それはつまりバランス感覚であって、世界の中心、あらゆる人間に適度にシンクロできる位置にいるのが最高の器用さとなる。左利きの平均寿命が短いとしたらそれは不器用さのせいだが、精神の不器用は自殺に繋がる。遺書に「器用さが足りなかった」と嘆く類のものがあってもおかしくないのに見かけないのはどうしてだろう。
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心の余裕。――軽蔑ですら、ある程度しっかりした足場がないとできない。崖っぷちにいる人間は、ひとまず崖のない方へ踏み出さねばならない。
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目的と手段。――カントが得意な手法だが、目的と手段について考えることは一つの見方である。一般的にその役割を交換することで新たな試みが可能となる。例えば映画は楽しむため、映画そのもののために観るから本来は目的だが、映画の成立背景や表れる文化的特徴を分析するときは手段として使っている。その場合、本当にそれが好きな人は手段として使われるのを嫌う傾向にある。音楽をムードを盛り上げるのに使う、などは手段でしか使ってないのだ。逆に、手段を目的として考えるある種の錯誤から生まれた新要素もある。スポーツのいくつか、徒競走やウェイトリフティングなんてまさにこれで、あまりに走ったり持ち上げたりが好きな人がそれを目的化してしまったのだ。同様に考えれば、新たなスポーツや芸術が作れるだろう。エレベーターは手段ではない目的だ、と主張する人が現れたら何が生まれるだろうか?
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映画の必要とされない時代。――ツタヤのビデオコーナーを見ていて気づいたのだが、いつの間にか海外ドラマが半分を占めるまでになっている。新作の宣伝もやたらドラマばかりなのは感じるところだろう。このブームが一時的なものなのか、本当の映画の危機なのかはわからないが、何より恐ろしいのは映像文化の先導者たるツタヤがこの大改革をわずか数年のうちに行ってしまったことである。それは彼らが映画なんかなくても別に問題ないじゃん、と気づいたことを意味する。そう、すでに映画の必要性は薄れ、代わりのものが来れば退場できる状態にあったのだ。人はいらないものでも捨てる機会がないと捨てはしない。大掃除の時に初めて、これはいらなかったんだとわかるのである。
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本当の隣人愛。――この機会にキリスト教の教えについて学んでおこう。彼らの言う隣人愛とは、隣人をいたわることではない。知り合いや家族に親切にするのは誰でもやることだ。イエスの考えはそんなに浅いものではなく、よきサマリア人の話を慎重に読むと理想的な隣人愛とは見知らぬ人をも隣人として大事にすることだというのがわかるだろう。そうなると、実践は確かに難しい。これの偽物ならこの時期溢れていそうだが。
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科学という信仰。――百年前ならともかく、今の時代では宗教を叩くよりも科学に警鐘を鳴らす方が必要のようだ。科学は磐石なように見えるが、結局は信念の上に成り立っているものなのである。一例を挙げよう。およそ確実なものに見える数学にはどんな信仰があるか。それは数が数えられるという仮定であり、つまり同じものが世界に二つと存在すると思っている点で嘘をついているのである。あのリンゴとこのリンゴが同じことはあり得ないし、たくさんのリンゴを箱に詰めれば二回とも同じように入ることはあり得ない。数学は現実を分析しているようで、本当のところ点は大きさがないだとか人が同じ速度で歩き続けられるだとかの条件を設定した仮想世界を創っているわけで、その点絵画と変わらない。違うのは用途だけだ。そして現代はそんなよくできた宗教のもとに成り立っているので安定して見えるが、それは今後覆りうるし、全く別のものが前提の世界も存在することはできるのだ。
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