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12月。――ほとんどの人は意識しないだろうが、この月は人間が自分の更新を行わなければならない定めにある。この月のさまざまな行事はすべて誕生に関係している。8日、お釈迦様の誕生日(気の毒なほと知られていない)。冬至、太陽の誕生日(この日以降昼が長くなり始めるゆえに)。クリスマス、太陽神ミトラスの誕生日。この日はイエスのものだと思われているがそうでないことはすでに証明されている。イエスに関しては知らない。敬老の日にでも生まれたのではないか?そして大晦日、世界の誕生日。ここで一旦世界は終了し、また新たなサイクルが始まるのだ。人間すらもこのしくみを逃れることはできない。人は忘年会というものをして、せっかくの一年をリセットしてまた振り出しから歩き出す。こうした作業はほとんど自動的に行われるがその意義は大きく、更新を行わずに生命を続けるのは困難なことだろう。たいていの場合周囲の社会が更新を手伝ってくれるが、いくばくかの人は手動更新を必要とする。ツタヤのWカードのように自動更新でいいならどんなに楽だろう!
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酒宴の役割。――以前に抱いていた酒の持つ特別な力への幻想が砕かれて以来、結局のところアルコールに人を変える力はないのではないかと思うようになった。飲み会とは人々が集合して非日常を作りだし、日常に溜まったものを消化するシステムであって、酒はその状態に移る契機、口実にすぎないのではないか。酒によって飲み会が始まることが宣言されると人は自ら解放モードに移る。飲み会で盛り上がって陽気に立ち回る人は別に酒の量に比例してそうなるわけではなく、会が始まると直ちに酔うことができるのだ。そうして絶対的に普段と違う状況になることによって日ごろの緊張をほぐし、また苦役の日常に挑むしくみになっている。良くできた仕組みだ。
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契機としての芸術。――先ほどの飲み会の場合では、酒は手段であって、気持ちを切り替えるためのスイッチの役割を持つ。そういう場合は酒の種類は関係なく、飲み飽きることもない。確かに世界には多様な酒が存在し、それらを飲み比べたり収集したりと、十分に楽しみを追究できる余地があるのだが、ほとんどの人はそれをせず、ただ契機としてのみ利用している。同様に芸術作品を契機としか考えていない人間も確かに存在する。クラシックを部屋に流してさえいれば自分は聴かなくてもいいと思っている人や、ただ人と会う口実としてのみ美術館や映画に出かける人がいる。これらの何がいけないかといえば、彼らにとって見に行く、聴きに行くことが大事なのであって、中身はどうであろうと、別のものに取り替わろうと関係ないのである。それでは作品を評価することはできず、ひいては芸術の発展に支障をきたすこととなるだろう。この音楽を聴かなければ生きていけないという渇望を味わわずに、どうして聴衆と言えるのか?
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誕生星。――以前人間の存在の濃さは人によって違うということを述べたが、それと似たような概念を紹介しよう。誕生星というものがある。これは占星術的なものではなく、情報は光の速さ以上では伝わらないゆえに、自分の存在する情報は年齢分の光年の範囲の外へは絶対に出ていかないという考え方である。つまり五年生きている人は周囲五光年の球の内部にしか存在していない。二倍生きている人はこの世の存在範囲は八倍になるのである。そして、ちょうど自分の誕生を知ることのできる距離にある星を誕生星と呼ぶのである。最も近いαケンタウリには4.3歳の時にはもう誕生が知られるし、22歳だったらみなみのうお座のフォーマルハウトが誕生星となる。そして逆に、22歳の人が見るフォーマルハウトの光はおおざっぱに言って自分の生まれた時の光なのである。ついでに、われわれが死んだ後のことを考えてみよう。今度は内側からドーナツ状に自分のいない空間が広がっていく。そして結局は土星の輪のように薄い膜として人間の存在は無限遠の宇宙へ広がっていくことになるのだろう。そう考えると、「生は死のなかのひとつの形態に過ぎない」という言葉も理解できるのではないだろうか。
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自己中心的思考。――自分を世界で最も劣った、誰よりも価値のない人間と思うこともやはりうぬぼれである。
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心を掴む音楽。――歌詞が良く聴き取れず、自分の好きなように解釈できるような曲が一番印象深かったりする。ミロのビーナスのようなものかもしれない。
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新しい道徳。――もはや血液型によって人間を判断する風潮は日本には定着してしまい、覆せそうもないようだ。そもそも性格を四つに分類すること、性格が一生を通して変わらないと考えることは非常に奇妙なことに思えるのだがそれすら疑わないらしい。もし科学的な根拠が欲しければ、骨髄移植で血液型が変わったら性格も変わるかどうか調べてみればいいのだが。ともかくこれは今や新しい価値判断の仕組みになってしまっている。今われわれは新たな道徳の誕生を目撃しているのかもしれない。これの生半可に科学的なところが、いかにもこの時代を反映しているといえそうである。
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死んでいる人。――自殺を試みる人は成功すればもちろん死ぬが、失敗してもその人は周囲によって殺される。この世界はそうした人間にとってあまりにも風当たりが強いところだ。どのみち死ぬのだとしたら、こういったことを考える時点で既にその人物は生きてはいないのではないか?どこで生命が失われてしまったのか?よく「死ぬなんて思いもよらなかった」と言っている人がいるが、もっと重要な精神がどこかで死んでしまったことに気づいていないのに、その後肉体も自然な成り行きで死にゆくことに気づけるわけがない。大事なのは、死につつある精神を見つけ出し、正常な活気を吹きいれてやることだというのに誰もそれをせず、子供のころの教育が悪いとか考える始末である。
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人類とは?――今までわれわれは相当数のたとえでもってこの動く骸骨を表現してきたわけだが、そのリストに傑作をまた一つ加えよう。人類は、「惑星にできた吹き出物」だというのだ。ここまで侮蔑的な例はそうもあるまい。しかも、「それが治ってしまった星もある」とも。確かにバックホーンの『惑星メランコリー』を見ると、惑星がこの病気に迷惑している様子が描かれている。昔ならこれは冗談で済んだことだが、今では本当に人類は星に治療されようとしているのかもしれない。そればかりは喜ばしいことではない。
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セイブジアース。――この問題はもっと関心を向けられるべきものであるので、ふさわしい取り組み方でこれに向き合わねばなるまい。まず、この地球が人類を造ったのは確かである以上、その生みの親を自由に操縦、保護できるような態度はやめるべきだし、かといってわれわれのものでないことは地球に対して責任がないことを意味しない。図書館の本は個人のものではないが丁寧に扱って、次の人に渡してやる必要があるだろう。さらに、アメリカ全土の空を覆っていたリョコウバトの例があるように、どんな動物だって絶滅しうるわけだから人類も動物である以上、絶滅するわけがないと考えるのはあまりに楽観的すぎる。なんで毎回隕石が落ちてきたわけでもないのに昔の生物のほとんどはいなくなったか、考えてみたことがあるだろうか?最後に、自分は無限の人間のひとりだから何をしても影響はない、と考えるのは算数ができない証拠だ。無限分の一かける無限は一となる。全員がそう考えて行動するとその結果は確実に変化をもたらすのだ。自分の行動が、世界のすべてを動かすと考えてふるまうべきである。
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