2009年05月31日

自ラ詩ヲ選ブ

「私たちが孤独から体得するのは独りである術ではなく、唯一者である術だ」シオラン

またもや詩。このくらいの地元意識はだれしもあるでしょうという。


両国アリストクラシー

その街の名は 両国
芥川が学び 夢野が死を見た
広小路 それは渋谷のよう
夜をも照らす大花火

だが楽園を悲劇が襲い 未来を奪い去った
燃え上がる建物 人々の悲鳴
忘れえぬあの日
もはや世界の 中心ではない

日本のギリシャ それが両国
パルテノンなくとも 回向院
讃えよ かつての栄華を
その光は 天まで届くのか

過去に消えた街 両国
浪士が討ち入り 海舟が暮らす
慰霊堂 それはエーゲの記憶
ハリカルナッソスの面影

だが歴史は見捨てはしない 未来は勝ち取られた
そびえたつ世界樹 われらの電波塔
やがて来るその日
ついに世界の 中心となる

日本のギリシャ それが両国
アポロ巨像なくとも 力士たち
ひれ伏せ 歴史のない都市よ
その響きに 月も震えるか


こぼれ話:

飛行機墜ちても 力士がクッション

という一節を入れたかったけど入りませんでした。
古代世界七不思議のうちギリシャにあるのは四つですが、こちらにも本所七不思議が、なんと倍の八つ!もあります。
・・・え?何かおかしいって?
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2009年05月20日

神の存在の何百もの論証

リチャード・ドーキンスに教えてもらった無数にある神の存在証明です。原文はここから見れます。
まったく頑張って訳したのに誰も興味を持ちやしない。
98や116のように、生物学の場で挙げられる(そしてドーキンスが否定する)論証もあれば、ライプニッツやトマス・アクィナスが考えた証明も近いものがここに入ってます。
とりあえず100まで全訳して、その後は面白いものを抜粋。特に好きなのは129と139。
英語が拙いのは、練習も兼ねてということで納得してもらえれば。
長いので別リンク。続きを読む

2009年05月14日

詩という無謀な試み

脳髄の中のドイツ語が、たまりにたまって爆発しました。
その結果がこれです。それ以上は言うまい。

タイトル「君にアングライフェン」

夕暮れ時 高く見上げれば
広がる ヒンメルスツェルト
青とロートが混じりあい 夜が扉を開く

すべては小さい この地上で
新しいものはニヒツ 飽き飽きしている だけど
このヘルツ schweigt niemals
まるでイェーガー 銃を手に
月を待っている

アングライフェン アングライフェン 心手に入れる
自らの鎚で打った グリュック信じつつ
アングライフェン Ich will dich アングライフェン
時は待ってくれない

シュテルネが顔を出し 次の時代を叫ぶ
理性はなりをひそめ ヒッツェだけが歌う

過去は美しい 誰もが振り返り
足を止め嘆く シックザルスシュメルツ だけど
君はここにいる Hier sind wir
道はウンエントリヒ 銃掴み
深淵へ放て

アングライフェン アングライフェン 追えば得られるか
頼れるものは己の ヴィレツーマハト
アングライフェン Ich will dich アングライフェン
明日はすぐそこに


なぜか80年代アニメ調になってしまいました。ただカタカナは全部ドイツ語ですが。
内容についての質問は受け付けておりません。
言語の壁についての文句も受け付けておりません。なんとかしなさい。

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2009年05月12日

まぬけのウィルソンのカレンダー:5月

すべてを失くしてからは ありがとうと思えた。

91
音楽聴衆の二律背反。――クラシックの聴衆は間違っている。良い音楽を聴いた時にじっと座っていられるはずがないからだ。ロックの聴衆は間違っている。良い音楽の演奏時に騒いだりして音を立てるなどもってのほかだからだ。結果、どっちもどっちということで、どちらも正しい。

92
音楽の評価基準。――歌の場合には、歌詞と曲の重視する比率が人によってばらばらだ。歌詞がよければ音楽は月並みでよいという人もいれば、主に洋楽のファンに多いのだが、最初から歌詞を理解しようともしない人もいる。どういう割合がよいかということだが、やはり半々を目標として両方の理解に努めるのが一番だろう。一方實吉晴夫氏は、歌詞が22%、音楽が78%と細かく割り振っているが、これは作曲者がシューベルト、詩が凡庸詩人のミュラーだからである。半々の見積もりだと、およそ歌詞はどうでもよいのに曲が素晴らしいため他の凡作を上回ったりする。その例にはRhapsodyからのソロ、Luca Turilliの音楽を挙げておこう。つまり50%の中身があまりに充実しているため、残り50%がほぼゼロでも他者を凌駕するのである。

93
アルバム編成と捨て曲。――「捨て曲」があるとかないとかと言う人がいる。アルバムの後半の曲は聴かれづらく、「捨て曲」認定をされやすいが、サージェントペパーズを出すまでもなくわかるように、アルバムを一つのシンフォニーとし、完全な調和を計算して作る連中もいるのだ。オフスプリングはその典型である。後半の曲の位置的不便さは作曲側もよくわかっており、しばしば第一印象が派手でないパッとしない曲を入れる。しかしこういった曲は噛めば噛むほど味が出る種類のものだ。後半の曲の良さを理解しないでそんなことを言う輩は即刻ゴミ箱に自身の耳を捨てるべきだ。さらに言うならば、後半にある穏やかな曲を聴こうとしない人は音楽が好きなのではない。どんちゃん騒ぎが好きなだけだ。飲み会でもやっているがいい。

94
通のしるし。――何かに詳しいということを示す現象の一つとして、「流行るものを数年前から知っている」ということがある。いささか自慢になるが筆者もマンガでは大島永遠や浅野いにおや福満しげゆきが、音楽ではバックホーンやシロップ、9ミリパラベラムがあそこまで世に出る前から目を付けていた。大島永遠がサンデーGXに載ったときはたいへん喜んだものだ。このことが意味することは、良いものは世界中にごろごろしているのだが、流行ったり注目されたりするものはそのうちの一握りで、しかも流行るものと流行らないものとの差は何もない。通は良いものはすべてマークするので、あとで目立ってくるとさも以前からわかっていたかのような顔をするのである。良くても流行らないものがその何倍もあり、この話をする時にそれらは忘れられている。すべては宣伝がうまくいくかだ。井沢元彦が言うように、「宣伝しないものは存在していないのと同じ」なのである。

95
セクトと宗教。――ロジェ・カイヨワが言っていたのだが、フランスですぐ新興宗教に対して使う「セクト」というものは秘密結社的意味合いがあり、フリーメーソンもセクトらしい。彼らは新興宗教を秘密結社扱いするのだ。ということは『悪霊』のピョートルの革命組織もセクトと呼ばれることになるだろう。日本における新興宗教の見方よりも宗教かそうでないかの区別がないといえる。

96
ケストラーの生物。――アーサー・ケストラーはしごく真面目で科学の勉強もそれなりにしているのだが進化論についてはおかしな考えを持っていた。ダーウィン説を否定したいがためにラマルキズムをまるで金科玉条のように崇めていたのだ。それはまるで背面跳びを意地でも避けてベリーロールで記録を出そうとする高跳び選手のようである。

97
カッコウの示す真実。――なぜ社会はすべての人を救えないのか?鳥は答えの一端を示している。カッコウに托卵される鳥はその時の為の判別、排除機構を進化させていない。なぜならそうした異常事態にわざわざ適応して無駄なエネルギーを使うよりは托卵で失う卵を出してでも平凡なシステムで生活する方が労力が節約されるからなのだ。社会もそのように回っている。

98
ミツバチの民主主義。――アリが社会を形成しているとはよく言うが、民主主義を採る昆虫がいるというのは驚きだろう。ミツバチは移動の目標地を調べるため方々に斥候を出し、それぞれが自分の見てきた方角の良さをアピールする。そうして無言の議論が続いた後、大多数がどれか一つになびくとそちらの方角へ決定されるのである。いつまでも決まらずに、二つに分裂する例もあるという。この一見画期的なシステムはとっくの昔から、アメリカ建国より地質学スケールで前の時代から考え出されて実行されていたのだ。

99
神話と世俗。――『食卓の賢人たち』によると、ギリシャ神話のスフィンクスのようななぞなぞというものは知識階級の間でも流行っており、もし答えられないと一気飲みさせられるという、現代でも何も変わらずに行われる習慣があったらしい。スフィンクスの神秘的な謎かけとは随分かけ離れた、われわれにやたら近い連中である。

100
エリアーデ的日々。――太陽は聖なるものだ。とても直視していられないから。虹は聖なるものだ。追いかけても追いつけないし、刹那にしか存在しないからだ。星は聖なるものだ。毎日変わらずに空に輝いており、はるかな昔の人も見上げた光だからだ。そして空・・・見上げることは別世界に思いをはせることとなる。いつどこにいようとも。

2009年04月03日

In Extremoの音楽世界

今回は、日本ではほとんど知られていないドイツの中世ロックバンドIn Extremoのドイツ語詞の訳を作ってみた。
彼らはドイツ圏でもっとも注目したい七人組で、マルクトザックプファイフェというバグパイプのような笛とエレキギター、ベース、ドラムを組み合わせた独特の演奏と、ボーカルのバンド内ではDas letzte Einhorn(最後のユニコーン)と呼ばれるミヒャエルの渋い声を特徴とする。
何よりすごいのは歌詞で、ドイツ語は半分以下、残りは古スウェーデン語やら古ポルトガル語やらラテン語やら。カルミナ・ブラーナからの作品も多いのでオルフのやつを知っている人は馴染み深いだろう。
差し当たってもっとも有名な曲、19世紀の詩人ルートヴィヒ・ウーラントの詩による「Spielmannsfluch(吟遊詩人の呪い)」から訳していこう。

Spielmannsfluch
吟遊詩人の呪い

 昔々あるところに王様がおりまして 土地も物も豊かで
 玉座に暗鬱に 恐ろしい顔で座っておりました
 彼の考えることは恐怖であり 彼のまなざしは憤怒で
 彼の言葉は災いであり 彼の書くものそれは血でした

 ある日彼のお城に 高貴な吟遊詩人の親子がやって来ました
 一人は黒髪 もう一人は白髪でした
 灰色の詩人は若者に言いました 「息子よ 準備をするのだ
 素晴らしい歌を奏でよう たくさんのメロディーを響かせよう!」

 *雨が降る 血の雨が降る
  雨が降る 詩人の呪いが降る

 二人の詩人は大きな円柱の間で演奏します
 玉座には王と王妃がおり
 王は血まみれの北欧の主のように華麗で
 王妃は太陽の輝きのように美しいのでした

 彼らは春を 愛を 聖なる歌を歌います
 王妃は哀愁のうちに泣き崩れ しかし喜びに溢れておりました
 「貴様らは我が民を惑わすのか 我が妻を欲するのか?」
 王は激怒して叫びました その体中を震わせて

 *繰り返し

 王の剣がきらめいて 若者の胸を貫き
 輝く歌の代わりに 血がほとばしりました
 若者は師匠の腕の中で 力なくあえいでいます
 老人は悲しみから叫び その声は広間を震わせました

 「呪われし人殺しよ そなた詩人の呪いを浴びよ
  すべての戦は無駄となり 血によって汚されよ
  王の名は歌われず 伝記にもならぬ
  埋もれ忘れ去られる これこそが詩人の呪いよ」

 *繰り返し


この詩は最初は呪いのわりに小さなことだなと理解できなかったのだが、これはつまり権力および暴力に対し言論の力で反抗する、という立場を表した詩なのである。だいぶR指定なところがいかにもメタル系好みとも言えるが。
次に同アルバム「Vererht und Angespien(尊敬され吐き捨てられる)」よりIch Kenne Allesを。この幾分かコミカルな詩はフランスの詩人フランシス・ヴィヨンのものである。

Ich Kenne Alles
私は何でも知っている

 古い魚はもう いい臭いはしない
 辛い時に人は 楽しかったことを忘れる
 グミの木が汗をかくのは 根の病気である
 その母と再婚すると 娘は悲しみをこぼす
 私はローマを知っている その力を
 私は夜中に訪れる 夢を知っている 
 私は何でも知っている 点から線まで
 ただわからないのは 私のことだけ

 すべてのベールの後ろに 敬虔さがあるわけではない
 坊主はみんな 修道服を着ているというだけだ
 召使のように 主人はあらねばならない
 四角形は荷車になるが 車輪にはならない
 私は愚か者を知っている その崩れた顔を
 私はすべての 悲しみの重さを知っている
 私は何でも知っている 点から線まで
 ただわからないのは 私のことだけ

 茨だけではない 薔薇も刺すのだ
 忍び足の者 神とも小声で話す
 翼は風を掴むが 葉はさにあらず
 私は吝嗇家を知っている その歩き方を
 私はすべてを奪う 死を知っている
 私は衣服に合う 襟を知っている
 私は何でも知っている 点から線まで
 ただわからないのは 私のことだけ

トリビア的な豆知識の羅列である。当時の感覚がよく現れているのがおかしい。よくこういった詩が見つけられたものだ。
次にアルバムSünder Ohne Zügel(手綱なしの罪人)より表題曲、Lebensbeichteを。

Lebensbeichte
人生の懺悔

 沸きたて 我が荒ぶる心よ
 怒りの苦しみの中で
 軽き存在である私など
 空気のように消えねばならぬ
 船頭なくして 我が船は進む
 鏡のような海を
 誰も我に枷をはめることはできず
 かんぬきをかけることもできず
 私のような者に試してみたところで
 手綱なしの罪人とわかるのみだ

 心は 本当の私を表し
 嵐は 常にどこかへ連れて行く
 うわべは嘘をつく もはや故郷へは帰らず
 堅い枷 それなら私は一人

 飲み屋であるとき 自ずから
 死んだように崩れ落ちる
 杯にはまだ
 私の顔が映る
 若さにまかせ 私は遊び回る
 悪癖にまみれたやり口で
 天使の合唱がそこで
 私に祝福を与える
 神よ この大酒飲みを罰せよ
 彼の罪の故に

 心は 本当の私を表し
 嵐は 常にどこかへ連れて行く
 うわべは嘘をつく もはや故郷へは帰らず
 堅い枷 それなら私は一人

なんだかあまり内容がないが、曲のほうは憂愁に満ちた渋いものとなっている。
さて次はアルバムSieben(7)よりSegel Setzen。

Segel Setzen
帆を揚げろ

 月が その光を失い
 太陽が おまえをもはや暖めない時
 小人が 巨人となり
 世界が 古き英雄を夢見る時
 影が 長い足を伸ばし
 憎しみが おまえの息を詰まらせる時
 言葉が 心の奥深くで燃え
 正気をもはや保てずと感じる時

 ならば俺と 旅に出よう
 ならば俺と 遠くへ行こう
 おまえの夢とともに 連れて行け
 歳月が過ぎ去る前に

 日が 長くなり
 蜘蛛が 巣を作りだした時
 すべての言葉が 言い尽くされた時
 それは逃げ去る時なのだ
 恨みの声が 大きさを増し
 誤った音色が 芸術となり
 臆病者が 偶像となる時
 その時ここに我らの居場所はない

 ならば俺と 旅に出よう
 ならば俺と 遠くへ行こう
 おまえの夢とともに 連れて行け
 歳月が過ぎ去る前に

 帆を揚げよう
 ここから逃げ出そう
 おまえを失いたくない
 連れ去ってくれてかまわない

 連れて行け おまえの夢とともに

 帆を揚げよう
 ここから逃げ出そう
 おまえを失いたくない
 連れ去ってくれてかまわない

どうにも後ろ向きな感じであるが、彼らのオリジナル詞は比較的その傾向にある。そういうのを選択しているというのもあるのだが。
ではアルバムMein Rasend Herz(我が荒れ狂う心)よりMacht Und Dummheitを訳してみよう。この詞はなかなかどうして、難解である。

Macht Und Dummheit
力と愚かさ

 この世界に来て すでに長い
 どんな立場も 気に入っている
 王はむさぼり食い 乞食は飢える
 売春婦は 天国の前で待ち構える

 愚か者として私は 嘲りと不和の種を蒔き
 僧侶として私は 救済を望んできた
 この脚をはるか遠くまで運んできた
 聞け 私の言うことを聞くがよい

 決して
 私は決して 永遠とはならぬ
 決して
 愚かさは 私の処刑人にはならぬ

 私は様々な 人間を知っている
 小さいのも偉大なのも 若いのも年老いたのも
 天国では 彼ら未熟者が裁く
 従順さを 灼熱が掻き立てる

 力と嘘が 真実を押しのける所
 愚かさがしばしば 第一歩をなす
 地獄こそが 楽園である
 年月を重ねた 私の言うことを聞くがよい

 決して
 私は決して 永遠とはならぬ
 決して
 愚かさは 私の処刑人にはならぬ

 愚鈍が 玉座のひじ掛けを暖め
 その矢は 弦にかけられる
 発射の準備 私へ腕を伸ばし
 私の高慢を呼び起こす そんな真似をする

 射手は 汗をたらし震え
 ある指示が 彼を待たせる
 目を閉じると 彼はそのままで 
 太陽の輝きが 心を貫き通す

 決して
 私は決して 永遠とはならぬ
 決して
 愚かさは 私の処刑人にはならぬ

 決して 決して
 私は不滅とならないだろう

最後の部分の主語が不明瞭なのだが、たぶんこうであると思える。どういう状況かは想像力が考えることだ。
最新のアルバムSängerkrieg(シンガーウォーズ)から数曲見てみよう。このアルバムでは古詩からの引用も少なく、未知の言語もスペイン語くらいなのだが、それでもよく聞いてみると印象深いものも多かったので、そんな理由もありたくさん訳してみた。

Frei zu Sein
自由であれ

 俺には王冠は必要ないし
 城も 宝石もいらない
 俺の住んでいるところはいつも
 俺にとっての故郷となる
 俺はならず者だが 自由なんだ
 そんな贅沢はみんな 俺のそばを通り過ぎて行った

 *自由であることには 必要なことは少ない
  自由なやつだけが 王であるんだ
  恥も知らずに 厚かましい泥棒は奪う
  なぜなら彼は 自らの幸福の鍛え手だから

 他のやつが夢見ることを
 俺は夜に奪っていこう
 俺の歩き方は 婚礼の白馬のよう
 恐れを知らぬ王
 傭兵たちに守られた
 自分だけの神が 俺の天に座る

 *繰り返し
 
 一つの卵は 他のには似ていない
 多くの人が 確信している
 ならず者が七人 同時に音楽を作る
 人は自らのやり方で 眠りにつく

Tanz Mit Mir
俺と踊ろう

 あまりに多くの 重荷を背負っている
 その重さが俺を 地面へ引き倒す
 良い日も 悪い日のよう
 背中がこすれて 傷となる
 世界は穏やかにあり 俺は踊り続ける
 毎日の匂いが 鼻についてうんざりだからだ
 階段を二段飛ばしで進め
 奈落へ続く階段を

 でも俺はそんな行いを 後悔はしない
 たとえそのために 代償を払うとしても
 ただ一度生きろ 俺は待てない
 終わりの時まで まっすぐで立っていたいんだ
 俺は立ち上がる そして再び倒れる
 ずる賢くならず ただ年を取るだけ
 そして自らの 体を壊す
 すでに一度 壊れている体を

 *来いよ 俺と踊ろう 人生のただ中で
  誰かが俺を 寂しいと思ってくれるその場所でさ

 荷物は重く 心を突き刺す
 顔には 汗が吹き出る
 そうやって俺は生きてゆく 苦しみとともに
 終わりなどは 信じない
 俺は立ち上がる そして再び倒れる
 ずる賢くならず ただ年を取るだけ
 そして自らの 体を壊す
 すでに一度 壊れている体を

 *繰り返し×2

 来いよ 俺と踊ろう 朝の光が差すまで
 嵐が 太陽と交わるその場所で
 来いよ 俺と踊ろう 人生のただ中で
 誰かが俺を 寂しいと思ってくれるその場所でさ

Mein liebster Feind
俺の愛すべき敵

 俺の鏡の姿はむき出しで ありのままだ
 しっかりと光は その皺を映し出す
 俺には力が そして憤怒も欠けている
 一撃で その連中をばらばらにするには
 だがすべての傷が 俺に残り
 過ぎ去った日々を 思い出させる
 すべての刺し傷 切り傷が
 俺の心に傷跡を残す

 次のやつはどいつなんだ?
 俺の獲物に触れ
 頭から冠を引きずりおろすやつは?
 俺より速いと思っている やつは誰だ?
 次の石は おまえの首筋に当たる
 俺は一人では 絞首台に架からない

 だがこの獣は あまりに大きく強く
 俺の日を ぶちこわした
 俺は策略と 悪知恵で
 待ち伏せ場所を 用意してやろう
 力があるのは誰で 勇気があるのはどいつだ?
 その証拠を持ってくるやつはどこにいる?
 俺は簡単な獲物にはならない
 たとえハゲタカが頭上を飛び回っていたとしても

 次のやつはどいつなんだ?
 俺の獲物に触れ
 頭から冠を引きずりおろすやつは?
 俺より速いと思っている やつは誰だ?
 次の石は おまえの首筋に当たる
 俺は一人では 絞首台に架からない

Auf's Leben
人生を飲もう

 おまえの若さでもって 俺は飲みたい
 ただ一杯だけ 忘れさせてくれる一杯を
 別れの時にも 始まりのことを考えていたい
 記憶が 薄れてしまうまで

 おまえの無邪気さでもって 生きていきたい
 今この場所を そしていつまでも
 お前の鼓動は 俺の脈を震えさせる
 そして次の白昼夢が すでに俺を運び去っている

 この一杯を飲んでくれ
 俺たちは 人生を飲み干す
 俺のグラスを受け取ってくれ
 おまえの分を俺にくれたのだから

 おまえの眼で 世界を見たい
 遠くへ連れて行ってくれるまなざしで
 もし俺たちが離れ離れになるなら
 もはや後に残るものは 何もない

 おまえの確信を頼りに 生きていたい
 もはやこんな歳になってしまったと 知っているが
 ひとかけら おまえから奪わなければ
 おまえを選んだという 喜びのために

 この一杯を飲んでくれ
 俺たちは 人生を飲み干す
 俺のグラスを受け取ってくれ
 おまえの分を俺にくれたのだから

2009年03月29日

まぬけのウィルソンのカレンダー:3月の3

泣きたい時に月はなし
吐きたい時に人はなし
死にたい時に歌はなし

いや 歌はある それは
月のように欠けもせず
人のように背を向けはしない
いつまでもそこに 永遠の調べを

81
機能としての涙。――忘れてはならない。泣くとは表現ではなく機能が先立つものだ。つまり行う当人にとって役立つからそうするのだ。それは精神的に異質な、限界を超えるものに遭遇したときに判断力を崩壊させ、問題に冷静に目を向けないように仕向ける。しかし一方でそれが周囲に対する強力なアピールになるということも人は生まれた時点でなぜか知っている。本来人は集団で生きる動物なのだ。こう言ったからといって、涙の価値を低く見積もっているわけではない。ゲーテのこういう詩もある。「涙とともにパンを食べたことのない者、悲しみに満ちた夜を自分のベッドに座って泣き明かしたことのない者は、あなた達、天上の力を知らぬ」

82
ピアノの難易度水準。――以前からやりたかったことのひとつに、ピアノ曲の技術的な難易度を定量化して表せないかということがある。それは「情報」の概念を利用すればうまく扱えるように思える。つまり時間当たりの情報量が多い曲ほど技術的に難しいということだ。ここで情報を使うのは、単純に音符の量や速さが指を動かす際の障害になるわけではないということに経験的に気づいているからだ。どういうことかというと、ドレミファソラシドシラソファミレのようなスケールは「前音+1」というルールに集約できるためそんなに難しくない。ドミレファレファミソミソファラのような音階も「4音のパターンを2度ずらす」という風に省略できるためあまり頭が混乱することはない。つまり、どんな風にも単純化、圧縮して記述できない曲ほど難しい、というのがこの見方の基本である。

83
小説の意味。――前にテーマは重要でないと言ったが、それの最たるものとしてルイス=キャロルの不思議の国、鏡の国のアリスがある。あれは目的としては女の子に聞かせるホラ話であるが、特に科学者のインスピレーションを刺激し、多くの比喩を提供するようだ。生物の進化競争においてその場に留まるためには全力で走り続けなければならないというリー=ヴァン=ヴェーレンの「赤の女王仮説」をはじめ、姿は消えてチェシャ猫のにやにや笑いが最後に残るのはどんな状態なのかという議論や、世界が誰かの見ている夢だとしたら存在するとはどういう定義で確認できるのかという思弁的な疑問も投げかけられている。読み直してみて気が付いたのだが、ギャグマンガ日和と非常に類似したシーンもある。馬から落ちて足以外地面に埋まるというのがそれだ。増田こうすけもここに示唆を得たのかもしれない。他にも印象的なセリフは多いので、一度読んでみるとよいだろう。

84
手間を省くための工夫。――ドーキンスが言っていたのだが、パソコンのファイルの削除とはファイルの情報をすべて抹消するわけではないらしい。ファイルがどこにあるかという「指標」を無くして、上書き可能の指令を出すだけのようだ。こうするといちいちデータをすべて消す手間が節約されるわけだ。つまりハードディスクの空きスペースは単に「利用可能スペース」を表しておりまったく何もないわけではないのだ。このことは復元ソフトで消したファイルが発掘できることからも実証されている。うまい手段を考え付いたものだ。

85
人間を超えるもの。――誤解の元であるニーチェの「超人」についてふさわしい訳語を発見した。「跳人」でどうか。「Übermensch」の「über」は明後日が「Übermorgen」であるように跳び越える、というニュアンスがある。これで少しは彼が理解されるとよいが。

86
今日を生きるために。――右手に「しょせん」、左手に「過ぎない」を。数多くのことをこれで耐えてきた人がいる。

87
社会と毒。――会社の指標の一つである「三年離職率」と毒物の強さを表す「半数致死量」は似ている。どちらも耐えられる生物とそうでない生物がいることを表している。

88
ことわざの進化論。――「情けは人のためならず」という言葉は功利主義的な第一意義よりも同情の危険性を述べる第二意義のほうがずっと意味のあるもののように思える。こう読む人が増えてきたことはむしろ喜ぶべきことではないか?

89
進化をこの手に。――生物の本を読むたびに、進化をコンピューターで再現してみたいという欲求に駆られる。ごく原始的なプログラムのバイオモルフというものは試みられている。現代の技術ならばより自由で複雑なものを一般人に提供できるのではないだろうか。シムアースよりも46億年物語よりもさらに実際的で多様性のあるものを。

90
幸福とは人を殺さないことである。――自殺は社会が負うべき債務である。あの世というものが存在せず、あの世からの勧誘ということを考えられない以上、現世のわれわれの行動にすべて責任があるとみなすべきだ。そして人間全体の幸福はいかに人を自殺も含めて殺していないかで測るのがふさわしい。われわれが社会の一員である以上、その一つ一つの行為が全体に影響を及ぼしている。どうして無関係を装えるのだろうか?人類全体の不幸を背負うような優しさが人にはないのか?

2009年03月25日

キリスト教は邪教ではありません!『アンチクリスト』

 われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。(…)
 (四)最も後期の諸著作に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じ込むこと)。

このようにわれらのジル(ドゥルーズ)が語っているところのニーチェの晩年の著作、『アンチクリスト:キリスト教に対する呪詛』についてである。この書に関しては講談社+α新書より『キリスト教は邪教です!現代語訳「アンチクリスト」』という本が出ており、これはおよそ存在する中でもっとも読みやすいニーチェの本であることは確かだ。
しかし、原著を読み終えるにあたって、いくぶん曲がった書き方をしている部分があり(しかも肝心の部分をだ!)それがまたニーチェに対する誤った解釈を招きかねないので今回読み解きながらその点について指摘させていただく。

まずそもそも新書の表紙だが、こともあろうにニーチェの写真と、炎上する貿易センタービルである。これではまるでニーチェがこうなるのを指示した、もしくは望んでいるかのようではないか。ドーキンスが憤る通り、かの事件に宗教が関わっていることは間違いない。しかし、この本でニーチェが成そうとしたのは「キリスト教の過ちの糾弾」であり、それは「もっとよい宗教になってくれ」という願いでもある。それを示さずにただアナーキズムを煽るのは、いかにニーチェといえども苦い顔をするに違いないのだ。

この本においてもっとも重要な箇所が最初の章にある。原著第二節、「善悪」についての言及だ。ここでいう「善悪」とは彼が『善悪の彼岸』で文字通りあの世行きにした古い従来の意味のものではなく、独自の、新しい「善悪」概念を構築しようとしている。新書版はこうなっている。
「『善』とは私に言わせれば、権力への感情を、権力への意志を、権力自身を、人間において高めるもののすべてのものです。」
ここに最大の誤解が生まれうるのだが、この文をそのままに解釈するとおかしなことになる。「権力への感情」や「権力自身」を高めるとはどういったものだ?それはつまり権力者が乗っているロールスロイスや、豪邸を見て「おれも権力者になるぞ」と一念発起するようなことだろうか。
もちろんそんなはずはない。それは「悪」のほうを見てもわかる。
「それでは『悪』とは何かといいますと、弱さに由来するすべてのものです。」
こちらは理解可能だろう。弱さに由来する愚痴とか、妬みとか、諦めとか、そういったものが良くないと言っているのだ。これを裏返せば何が「善」かがわかるだろう。
結局は「権力」の単語がいけないのである。ドイツ語は「Macht」なのであって、第一の意味の「力」に置き換えてみると最初の文も納得がいくようになる。すなわち「力への感情」、「力自身」を高めるものとは何でもよい。おいしいケーキとか、面白い映画とか、頑張って輝いている人とか、元気が出るものを良いといっているに等しいわけだ。
信頼できる白水社版の訳を見てみると注釈にこうある。「権力(政治的支配欲のみを表す通俗の「権力」とは異なり、ニーチェに特有の形而上的概念で、「力」と訳してもよいが、自然的物理力とも異なるので、敢て「権力」に統一する)」つまりこの「権力」はニーチェ独自の用語なのであって、注釈なしに使うのは誤読を誘っているようなものだ。
もう一つ、「Macht」を政治権力と読むのを否定する証拠を挙げよう。彼は別の場所で政治権力を指すために「Gewalt(権力もしくは暴力)」という単語を使っているのだ。別の単語に同じ訳語を当てるほど愚かなことはない。彼の「Macht」を「権力」にするなら、注釈を入れるかもしくは「ごんりき」とでもルビを振って別の意味合いだと強調すべきなのである。

注意書きが長くなったが内容に入ろう。彼は「科学(Wissenschaft)」という見方からキリスト教がいかに害をもたらしたかを指摘する。それは「真理」の問題であり、それを神に独占させることによって人々の目を曇らせたことこそがキリスト教の罪だと言っているのだ。意外かもしれないがこれは科学者がよくやるような正当かつ月並みな宗教批判である。この立場において罪は宗教全体にあるわけだが、たまたま大勢力であるキリスト教が攻撃対象になっているのだ。
そして哲学を所詮はキリスト教神学の延長に過ぎないと看破する。これも今や当然といえる見方だ。なぜなら科学も、学問全体が宗教の中から分離して独立したものといえるからだ。神を証明しようとして世界の構造を解き明かした科学者は過去にはたくさんいる。
彼がキリスト教と対置させるのは「自然」であり「現実」である。第十五節(白水社版、以下も記載なしは当版)にはこうある。
「道徳も宗教も、キリスト教においては、現実といかなる点でも触れ合うことがない。」
この部分も非常に科学的な視点を持っているといえるだろう。

しかし、ニーチェがドーキンスらと違う点、言い方を変えれば彼の限界、は「まだ神を必要としている」点なのだ。つまり彼はキリスト教の「だめな神」ではなく、「新しい神」を持つことを提案しているのである。第十六節によると、
「自分に感謝するために、神を必要とする。――こういった質の神は、有益であり得るとともに、有害なものでもなければならない。友でもあり、敵でもあることが必要だ。人間は良いときでも、悪いときでも、神を讃えるものなのだ。」
これこそが、広く行き渡ったニーチェ概念を転換するものであり、ニーチェを宗教者として数えるべき理由の一つでもある。考えてもみよう。彼の理想としたツァラトゥストラ(ゾロアスター教のではなく、ニーチェ自作の)も宗教者であることには変わりはない。ニーチェは深く宗教的な人間なのであって、同じく道を外れたキリスト教信仰を攻撃したキルケゴールとの類似性を見る向きも、この点に関しては当たっていると思う。
ドストエフスキー『悪霊』のチホンも僧侶からの視点としてこう言っている。
「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです」と。

この傾向は、本書の中盤以降になるとさらに顕著になる。彼はルナンによる「救済者」の定義を批判し、「本当のキリスト教」はこうであった、と指摘し続ける。すなわち、
「『福音』とは、いかなる対立ももはや存在しないということにほかならない。天国は子供たちのものである。ここで説かれている信仰は、戦い取られた信仰ではない。」(第三十二節)
「『福音』の心理学全体には、罪と罰の概念が欠けている。報いという概念もない。『罪』、すなわち神と人との間の距離の関係はすべて、取り払われている――ということこそまさしく『福音』にほかならない。浄福というものは約束ごとではないのだ。それは条件に結び付けられてはいない。浄福は唯一の現実である。」(第三十三節)
ここでは今までの姿勢はどこへやら、どう見てもキリスト教弁護にしか見えない。正確に言うと、イエスの本当に成就したかったことについての弁護である。本文のタイトルの由来もここにある。
そして本書のもっとも感動的な、彼の宗教性を余すことなく表している一文がこの後続く。
「『天国』とは心の状態のことである。(…)『神の国』は待って得られるようなものではない。そこには昨日もなければ明後日もない。『千年』経っても来るものではない。――『神の国』は心における一つの経験である。それは至る処にある。それは何処にもない。」(第三十四節)

彼が問題にしているのは、そうしたイエスの行動および教えがいかに曲がってしまったかということであって、ニーチェはその原因をパウロに見ている。パウロがキリスト教を生き延びさせ、世界に広げるために好き勝手な解釈を付け加えてしまったというのだ。このイエス→パウロの図式は宗教においては成立時にしばしば見られることであり、日本では浄土真宗の親鸞→蓮如がこれに非常に近い。基本的に親鸞はイエスとかなり似た行動、教えをもたらした人物であり、先の第三十四節のようなことも話している。浄土は死後のためにあるのではないという話だ。蓮如はその潰れかけだった、というかそもそも宗派を興す気のなかった親鸞の教えをわかりやすくし、広めて回ったことから「中興の祖」と呼ばれる。

新書に目を戻すと、「キリスト教は女をバカにしている」という見出しでマヌ法典との比較の節が語られているが、これは拡大解釈に近い。ここではキリスト教が生を貶める過程で誕生を担う女性や子供を軽んじていると言っているだけであって、なにしろおかしいのはニーチェ自身がものすごく「女をバカにする」人間なのである。これは弁解の余地もない。
実際のところ、女性、や異性、に対してバカにするとかしないとかいうのは個人的な問題が大きく関わるのであって、経験を抜きにしてこれを語るのは不可能であると言っていい。ニーチェの場合女性はむしろ「絶対に勝てないもの」として敵視し、当時のフェミニズムなんかを攻撃していたように思える。
要するに「おまえらがこれ以上強くなったらおれには成す術はないじゃないか」という言い草なのである。すっぱいブドウだ。彼の経歴を見ればわかる通り、激しく活動的でかつ(間違った方向だが)優秀な妹に対しては最後まで(死後も)頭が上がらず、ルー=ザロメには彼女に鞭で打たれて楽しそうにしている写真がある。

さて、本著は後半はひたすらキリスト教の負の歴史の数え上げに費やされる。ローマ帝国の偉大な文化をだめにしたのもキリスト教で、十字軍は東方文化に対し至極失礼な振る舞いをし、ルネサンスはルターによって息の根を止められた、と。この辺りはいささか陰謀論めいており、すべての原因をキリスト教に帰するのは抵抗があるがとりあえずドーキンスの『神は妄想である』の内容と似ているところがある、と述べておこう。
その中で気になるのは第五十三節の、「血は、真理の証人としては最悪である。血は、最も純なる教えをも毒し、心の妄想とし、憎しみと化す。」というところで、これは宗教が「死」もしくはその他の危険を取り込むことによって人々の支持を得ることを危惧している。基本的に伝道者は教えを広める際に生命を危険にさらせばさらすほど、価値があるとされる傾向がある。自爆テロなどもこの考えで幾分か説明ができる。
問題なのはツァラトゥストラの「読むことと書くこと」の節に矛盾しているように見える有名な話が書いてあることだ。いわく、「すべての書かれたもののうちで私が愛するものはその血で書かれたものだけだ。血でもって書け。そうすれば君は血が精神であることを理解するだろう。」というもので、「血」を強力なものとみなす点では共通しているが、それが肯定的か否定的かが異なっている。
彼の批判するものはだいたい強大な力を持っている。同情も、ルサンチマンも、信念もそうである。その利を知りつつ使わないのが体制の批判者たるニーチェである。この場合は誘惑に勝てなかったと言うべきか、実際後者の文章は魅力的であり、取り上げられることも多い。あまりそれに熱狂的にならないようにすべきである。

もう一つ触れておきたいのは第五十五節、「嘘と信念」についての言及だ。ニーチェは「嘘と信念との間にはそもそも対立というものがあるだろうか」と言い、二つは同じものではないかと考える。それを理解するには嘘の定義およびパースペクティヴの概念を念頭に置くべきであって、嘘については「私が嘘と呼ぶのは、見えるものを見まいとすること、あるいは見えるように見まいとすること、これである。」という、見方を変えれば「信念」ともとれる言い方をしている。つまり視点の問題なのであって、「カラスは白い」という事実に反することを信念によって信じている人は、端から見ると嘘つきに見えるという、こういうことなのだ。
以前、人間は自分も信じられないような嘘はまずつかないゆえに嘘というものは存在しないと言ったことがあるが、嘘に見えるものは信念であるし、信念に見えるものは嘘でもある。あとは肯定的に受け入れられるかどうかや、その信念の持つ大衆性のいかんに左右されるのだろう。
もう一つ彼が言いたいのは嘘が「信念」として形を取っている状態ではもはや何を言っても嘘にはなりえないということである。信念のあるところに嘘はなし、とでも言えるだろうか。原著にはこうある。「(僧侶が)口にするような事柄の中には、嘘をつく余地がまったくない。嘘をつくためには、ここで何が真理であるかを、みずから決定することが出来なければならないからである。しかし、そんなことは、ほかならぬ人間には出来ない。出来ない以上は、僧侶は、神の意を代弁する口たるに留まるのである。」

最後に、冒頭で述べた政治権力としての「権力」について、それについて書かれている章を狡猾にも飛ばしたと言われないために取り上げておこう。本書でもっとも長い、第五十七節である。
ここは思わず目を背けたくなるような箇所であり、実に差別的な政治体制が説かれている。カースト制度を「生そのものの最上の法則を定式化している」と呼び、民衆は三つのカテゴリーに分類されるべきだと述べている。選ばれたエリートと、それを助ける法および力の番人と、その他大勢である。エリートは特権的なものであって、精神的に優れていなければならないと言っている。
ここで気づくのは、これは厳密なカースト制度ではないということだろう。なぜなら「生まれ」という要素がまったく触れられていないからだ。ニーチェはどうやってこの三つに人間を分類するかについて説明していないし、説明できないのだろう。
だからこの制度はカーストというよりも中国の天子思想、すごく徳の高い人間がどこからか出てきて、国を支配したらいいじゃないか、というものに近いように思える。そしてその天子を誰が決めるかという問題は未解決のままである。
もう一つ、下層民に対してもフォローがなおざりである。カーストにあるように当然人民統制のために全ての権利を奪われた階級を作るべきだと支配者なら考えるだろうが、ニーチェはその他大勢はまあ好きにやってくれと言い、その「中庸さ」は上部の層を維持するのに必要だとまで語っている。そしてその大勢は中庸が幸福であり、歯車としてうまく働く役割を果たしている。
これはむしろ危険な社会制度というよりは、現代に対する一つの不気味な予言としか思えない。「一億総中流」というのはまさにこれではないか。誰もニーチェの教えに従って革命など起こしていないのにこうなってしまったのはどこに責任があるのか?
したがってニーチェのこうした提言に対し危険思想だ、とか悪魔的だ、とか批判するいわれはどこにもない。ただ彼はその状態を赤裸々に描いているだけなのだ。すべきことはこの指摘を無視せず、問題だと思ったら改革すればいいし、これが理想だというなら(今や過去のものだが)甘受すればいいだけのことだ。

総じて、ニーチェほどいろいろなことを言い、さらにそれが曲がって伝わっている人物はいない。新書サイズの本一冊ですら、これだけ多くのことが出てくることからもわかるだろう。
この本でも他の本でも、彼が成し遂げ、成し遂げられることを望んでいたことは一言に集約される。それは『アンチクリスト』の最後の一文でもある。すなわち、

全ての価値を転換せよ!

posted by あしがる at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 読むという病R | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

まぬけのウィルソンのカレンダー:3月の2

「I'm an outsider, outside of everything.」
少し格好つけすぎだが、印象に残る言葉だ。

71
一言で人を語る。――彼が『偶像の黄昏』でやっていたのを真似して、一言でその人物作品を描写しようと試みる。指し当たって漫画家でやってみよう。むろん、取り上げる価値のある人物のみを述べる。
押切蓮介。恐怖をもたらし、一方は救いをもたらすものとしての力の二面性。福満しげゆき。近視の目で全世界を語る。美川べるの。ギャグ漫画の唯一の正統伝承者。岩明均。死は瞬間である。新井理恵。意識の迷宮の彷徨。大和田秀樹。世界は派手さを求め面白くなる方向へ。古賀亮一。笑いの百科事典、ガトリング砲。増田こうすけ。パラレルワールドの開示者、スウィフト的な。施川ユウキ。思考のみ存在する世界、哲学者。西岸良平。顔が表現するノスタルジー。桑田乃梨子。一般人とだめっこの混合の試み。古谷実。笑いに引き立てられる孤独と絶望。最後に浅野いにお・・・は良い表現が見つからないのだが、漫画界の未来をその肩に背負っている人物である。


72
科学のマイナス。――科学のマイナス面は、もはや世界について考えさせてくれないことである。説明のなかった昔に比べ、説明されている世界で疑問を見つけることの難しいこと!もちろん過去においても世界は(創造神話などの方法で)説明されてはいたのだが、現代の科学はずっと支配的な力を持っている。これが科学者を育ちにくくさせるのはもったいないことだ。

73
世界を広げるには。――世界が広がるとは帰納的に造られた常識に対する例外に出会うことである。自らの常識を構築しないですべては良い、のような態度はいささか危険だ。

74
絶対音感。――これほど人間的な規定があるだろうか?音階は唯一のものではなく恣意的に定めたもので、「絶対」を読み取れるようになるのは単にそういった訓練を積んだからに過ぎない。ある本によるとそもそも日本以外ではこんなもの存在していないというのだ。これで音楽を理解した気になっている人間はその奥へ踏み入ることはできない。

75
ゲームの神話性。――ゲームの神話性とはただ単語の引用元としての神話(オーディーンとか)にあるのではない。例えばドラクエ1では、システム的な都合から橋を渡ると敵が強くなるようになっている。これは民話などの分析でよく語られる橋=異世界の入り口もしくは境界というモチーフにそっくりである。われわれがそれを意識しないのは橋を架ける苦労や境界の感覚がないからなのだが、ドラクエはそれをうまく保存してくれている。

76
日本語の特性。――この文章を構成している言葉について、ひとつ顕著な、よその言語で未だ発見できていない特徴がある。それは語尾によって文の意味が作用されることである。われわれはその例をしばしば見ている。「〜っス」とか「〜だワン」とか「〜りゅん」とかその模索の過程は果てしなく、文章においても(笑)などは文の強さ、性格を規定する。外国語においては付加疑問文のようなものはあるが、常につけて個性を表現する類のものは見つからない。宮沢章夫によると「ナンチャッテ」と「ダヨーン」は違い、前者は文の意味に左右するが後者は文を脱構築するらしい。なんとも深遠な分析ではないか。

77
この世界はどうなっているのか。――カエサルという名の猿がいる。プラトンという名の豚がいる。サルトルという名のふきんがある。サルトルは『1、2のアッホ!』で猿としても登場していた。次はスピノザという名の映画館か、トマス・アクィナスという名の秋茄子か?

78
集団の愚。――ジャンプ漫画はとにかく協力すれば何でもできるということを主張し、それは一理ある。しかし一方集団の愚も確実に存在する。その良い例が大学である。ひとつの授業にあれだけの人数がいれば、誰かが遊びに行こうと言い出すもので、個人としては優秀なのに群の中に入ると愚かな決定に従ってしまうものである。ドーキンスも同様の事を持ち出し、陪審員制度を批判していた。これは要するに頭の働きについての問題なのである。岩を運ぶのだったら人数は多いほうが良い。しかし、大人数が参加して良くなった小説はない。集団で愚かなことをやる会議も裁判も、止められるのは個人のみなのである。

79
小咄。――「『山羊』は『ヤギ』でしょ?じゃあ『羊』は『ギ』?」と言った人がいた。この話からわかるのは山羊は二次的な名称であって、アライグマなどと同様日本では馴染みの薄い動物だということである。

80
しるしを読むことの難しさ。――エリアーデは「シンボルはその意味が意識をのがれているときでさえ自己の伝言を伝えてその機能を果たす」と言った。つまり本人の意図しないことをも伝えるためにシンボル解釈は意義があるのであって、一方大学の先生が言った「あるシンボルにまったく意味がないということを証明するのは不可能である」というのもある。しるしに気づかないのも問題だが、多くを読み取りすぎると邪推や占いとなってしまう。難しいところだ。

2009年03月11日

まぬけのウィルソンのカレンダー:3月

ただ憧れを知る者だけが。

61
「真の音楽」の定義。――音楽の本質というものは、聴覚以外の要素を排除するとすれば一つということになるだろう。だがしかし、不思議とそういった「純粋音楽」が芸術として成立している例は見られない。どんなライブでも、目をつぶって聴くことを要求されることはなく、オーケストラもオペラもゲーム音楽もビジュアル系も、最後のはその名前からも顕著だが、視覚やその他の感覚に拠るところが大きい。だが逆に、演奏対象がいなくてもオーディオやMP3プレイヤーで音が作れるようになった現代では、聴覚要素だけの音楽を考えやすいといえるのではないだろうか。そのような音楽の良いものとはたとえば、そこら辺のオッサンが歌ってもすばらしいと思える歌、などだ。なかなか難しい基準なのがわかるだろう。

62
目に映るものを第一とする支配的傾向。――それと関連して、古今東西のほとんどの人は視覚イメージに大きく頼りすぎているように思える。たとえば偶像崇拝の禁止などは、音の中に神が見出せる人にとっては何の締め付けにもならないはずだ。「心の中の神」VS「目に見える神」という対立関係はあまりに単純に思える。音や匂いの中に神がいたっていいはずだ。

63
今日の一言。――「圧倒的な情報量にどっぷりつかると、画期的な発言に繋がることが多い。」発言者はピーターアトキンス

64
ちょっとした話の種。――金魚が水面で口をぱくぱくやっているのは誰もが見たことがあるだろうが、それは酸素を取り込もうとしてだと説明されるだろう。すると金魚は肺呼吸をしていることになる。これは意外と驚くべきことではないか?

65
誰もが自分を基準にする。――考えてみるとわかることがいろいろある。切符の販売機の「投入金額が不足しています」の執拗な音声にいらいらさせられることは多いが、あれは画面の見えない人のための案内なのであって、あんなものはいらないなどと文句を言う人は共感能力に欠けているということになるだろう。

66
騙され心理学。――そこらで手に入る心理学の本もしくはマンガなどでよく出てくる「釣り橋効果」というものがあって、相手に好意を持たせるテクニックだと言っている。しかしなぜ逆の可能性、相手に対する興奮をその場の興奮と取り違えるケースについては述べられていないのだろう。つまりドキドキするのはジェットコースターに乗ったからであって隣の人のおかげではないと思うような。本に騙されて泣きを見る連中の顔が目に浮かぶ。

67
小説の難しさ。――小説はツアー旅行に似ている。奈良の大仏のような目的地にたどり着ければその道中はどうでもいいというものではなく、行って帰ってくるまでの過程もツアー客=読者を楽しませなければいけない。別におしゃべりに夢中で肝心の大仏=テーマはほとんど素通りでも面白いものは面白いのだ。

68
超困る日本語の変容。――「超人」という単語の誤った取り上げられ方には以前も触れたが、これはそもそも「超」が「メタ」のような「〜より上部の」という意味を失っているのが原因のようだ。「超現実」は「すごいリアル」という意味ではない。だから「超人思想」のような妙な使い方が発生するわけだ。ウォーズマンとかぶらないようにするためにも(この理由はわりとどうでもいいが)ニーチェの「超人」は別の単語にすべきだ。だが「外人」「上人」はもう別の意味でふさがっているし、「乗り越えられた人」を表すよい表現はなかなか見つからない。

69
魔王に気をつけろ。――最初に訳した人の変な訳といえばシューベルトの歌曲で有名な『魔王』もそうだ。あれは原語から考えるとせいぜい「樹王」ぐらいが適切で、その大げさな響きで子供時代インパクトを受けている人も多いようだ。ちなみに魔王というのは悪魔と同様西洋的な単語だ、と思うのは間違いである。アスモデウスやバアルと並んで、日本にも魔王がいた。山ン本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)と名乗ったやつだ。なんとも親しみやすい名前の魔王ではないか。江戸時代の人も捨てたもんじゃない。

70
効率化のその先。――一つの比喩として興味深い話をしよう。カタユウレイボヤというらしいciona intestinalisは、幼生のころは運動をして栄養を採るので脳を必要とするが、いったん適所を見つけて固着生活に入ると、エネルギー面で負担の大きい脳を自分で食べてしまうという。これが何を示唆するかはもうわかるだろうから詳しく解説しないが、カタユウレイボヤにならないようにとだけ言っておこう。

2009年02月19日

まぬけのウィルソンのカレンダー:2月

中休み。

51
科学の創造性について。――われわれはニュートンや、ガリレオに比べてはるかに頭が悪い。彼らの特筆すべきところは、常識的な感覚に反する物事を証明したことである。その実験は、今見てみると誰でもできそうなことだが、そこに到達する信念は容易なものではない。例えばガリレオ。重いものと軽いものを持ったときに、重いほうがより強く下に引っ張られており、その結果落としたときの速度も増すと考えることは、慣性の法則から言ってもごく常識的なのではないか?重いほうがたくさん力が加わっているように見えるのだから。それを疑ってみるということは並大抵の発想ではない。同様に、見て観察する限りでは太陽は地球の周りを回っているに決まっているのだ。それが逆だなんて、どうして思いつけよう?地面は微動だにしない(ように感じられる)というのは常識だ。綿密な観察を続けて決して地動説を認めようとしなかったティコ=ブラーエをわれわれは笑うことはできない。科学の発展に重要なのは発想の飛躍と異端の考えへの信念であり、それは詩や文学の創造に比肩しうる(それ以上だと思う人もいるだろうが)ものである。

52
情報という概念の使い方。――今まで何と言って表現したらよいのかわからなかった物事を説明するちょうどいい言葉を発見した。それが「情報」である。それは価値ある情報と「冗長」なものとの区別によって知識の新しさを判断するやり方で、デジタル技術などはこれを基にしている。例えば「赤信号が青信号に変わった」は冗長な文である。「赤信号が青に変わった」もしくは「信号が青に変わった」と重複する情報を省くことによって効率化を図ることができる。しかし、冗長とは無駄ではない。単なる「青に変わった」になるとほとんど意味が取れなくなってしまうように、繰り返すことによってエラーを防止する役割を冗長性は持っている。伝えるうちに一ヶ所読めなくなっても別の部分に照らし合わせれば復元できるわけだ。さて、何が言いたいかというとわれわれは日常で得ている情報の価値をもう一度計算してみるべきなのだ。テレビでも映画でも冗長なものはひとたび理解すればもう繰り返し見る必要はない。これが顕著なのはジャンプの漫画だ。いくらかのパターンを見つけると、ほとんどがこれによって説明できてしまう。「友情努力勝利」とか「誰かが死んだらパワーアップ」とかである。その外見のみ異なり内実は大差ない様子はあたかも品種は様々なのに種としては同じであるイヌ(Canis familiaris)のようだ。とにかく似たようなことが書いてある本は読む必要がないし、同じことの繰り返しのテレビは見る意味もない。この文章も冗長、というより余計な情報を書きすぎているのでまとめると、「無駄なものはない。ただ冗長があるのみ」ということだ。

53
笑いの錯誤。――芸人のお決まりの持ち芸というものには、原因と結果の錯誤が働いている。ある意外な行動、言動をして笑いを取れたことがその意外性ではなく、その動作そのものに面白い要素があったと勘違いするために、流行の持ち芸が出てきてしまうのだ。相手がこうすると思っていてその芸が出ることには意外性も何もない。ただ「以前も面白かったから今回も面白いのだろう」と思って笑っているだけなのである。笑いとは頭の中の常識が意外な事態によって侵食されることに対する反応のひとつである(例えば「バイトの面接」というシチュエーションで変な行動をとる人物が登場するなど)。だが大勢の人間はそうでない状況でただ流れにより、周囲に合わせて笑っているだけなのである。最近のマンガは『ギャグマンガ日和』のエピゴーネンがやたら多く見られるが、これもただあのつっこみ方が面白い理由だと勘違いして形式を真似ているだけであり、中身のないものである。大事なのは意外性だ。

54
笑いについて。――毎日の生活で笑えない人は喜劇を求めるのかもしれないし、悲劇を好む人は単に日常で悲しまない人なのかもしれない。

55
手の込んだ言い逃れ。――哲学的な思考はうまくすると、とても便利に人を煙に巻くことができるが、それは現実に直面した瞬間に効力を失う。例えばこうだ。数学の教師に対して「私は三角関数がわからないが、わからないことを知っている。しかしあなたは何がわからないか知らない」と言えばその場は言い逃れられるかもしれないが、三角関数のテストで点が取れないことに代わりはない。「抜き打ちテストは存在しない」のパラドックスもこの類型だろう。喜劇の種にはなるかもしれないが。

56
自分たちを「平等」と考えることの危険性について。――『学問のすすめ』が言っていることの焼き直しだが、平等とは結論でなく出発点であるべきものである。「誰がなんと言おうとわれわれは平等」という考えを固辞することは、現実の差異から目を逸らせる危険な傾向である。手を繋いでゴールする徒競争の都市伝説のように、最終的な位置において平等を強調することはまったく意味がない。「君は不利な立場にいるかもしれないけど、人間は平等なんだからみんな一緒だ。我慢しよう」などと、平等を強い者が権利を正当化するのに使ってはいけない。

57
差別の起源について。――それを考えるのには、子供に目を向けるとわかりやすいだろう。子供は優れた比較能力をもっており、異質なものを発見すると指摘せざるを得ない。家庭環境が異なるとか、どもりがあるとか、行動がぎこちないなどの変異をありのままに報告するために、それが差別、子供の場合はしばしばいじめへと繋がるのである。大人の社会にこれが少ないのは、ただ正直さに歯止めがかかっているからに過ぎない。よって差別それ自体は自然なもの、本能的なものといえるのだが、それは差別の存在を容認することを意味しない。自然なものに逆らってこそ文明なのである。

58
文系の危険。――いわゆる「文系」の中には、ものごとの仕組みを驚くほど理解しようとしない人がいる。それは何もパソコンなど機械に限ったことではない。極端な人はリュックサックの長さ調節の仕組みすらその範疇に入るのである。こういった人は逃げがうまく、「コンピューターリテラシーがないから」などと自慢そうに言ったりするが、リュックサックの例からわかるように、そういった人間はパソコンの登場以前にもいたのだ。もちろんそんな思考法による利点も多いのだろうが、もう少し自己を認識してほしいものである。

59
陰口の価値。――抱いた悪意を解消される方法として、陰口というものは大きな役割を果たしている。この一見陰湿なやり方は、その悪意が蓄積されて爆発するのを第三者に話すことによって未然に防いでいるのである。「○○課長のバカヤロウ」と言うのを我慢してそれが憎しみに変わるよりは、同僚がそれを聞いてやるほうがいいのである。

60
信用されるには。――人に信頼されるのに必要なことは、安定していることである。いつ頼っても悩みを落ち着いて聞いてくれるというような安心感が信頼を生むのであり、連絡してもちゃんと返事ができるかどうか、生きているのすら危うい人間は信頼されない。しかし安定しているというのは把握しやすい、シンプルな人間だということも意味しているのであって、そうでない人のほうが深みがあり面白い、ということもあるのだろう。