2009年11月06日

ハック!ハック!ライプニッツ!

ここでは、前回『弁神論』の解説をしたときに論じ切れなかった内容や他の哲学者との関係、単なるおもしろ話を書いていこうと思う。
タイトルはたぶん「ライプニッツ万歳」のような意味。詳しくはSFCソフト『ドラッケン』を参照のこと。

ライプニッツが現代において大きな障害となる点は、その神思想がインテリジェント・デザイン論と類似していることである。
ID論への攻撃はスパゲティ・モンスター(スパモン)教の提案などによって行われているが、その論法は「そのような思考法なら、こんなへんてこな神も容認することになる」というもので、結局神の計画がないという絶対的な反論はなされない。
ライプニッツの要旨は「最善の計画をなすものであれば、神の姿などにはこだわらない」というものなので、その根底となる充足理由律や予定調和を突き崩さない限りは神の存在は揺るがない。
そういう点で彼の要求する神は自然科学と共存可能であり、むしろそれを望んでもいるので、ID論が洗練されてライプニッツ的なものとなったときにその手ごわさは最大となるだろう。
もちろんライプニッツの論を踏まえてもこれを生物の授業で教えるべきでないというのは否定されえないものなのだが。

『弁神論』の中でライプニッツが卓越したユーモアを発揮している箇所があるとすれば、それは工作舎『ライプニッツ著作集6』p227であろう。
ここでは彼は「もし徳だけしかなかったり、理性的被造物しか存在しなかったりしたら、善はもっと少なくなってしまう」という多様性の賛美を行っているのだが、その例が愉快である。引用すると、
「どんなに貴いものであっても同じものを変わりばえもせずただ繰り返すだけならば、それは過剰であり、貧困であろう。書斎に千冊ものウェルギリウスを束ねておいて置くこと、オペラ『カドミュスとエルミオーネ』のアリアだけを歌って明け暮れること、磁器を全部壊して金製のカップだけを用いること、ダイアモンド製のボタンだけをつけること、ヤマウズラしか食べないこと、ハンガリーのワインかシラズのワインしか飲まないこと、こうしたことが理性的といえようか。」
たぶんこれらはライプニッツにとって価値の高いもの、好きなものなのだろう。ここ一つで『弁神論』全体を貫く思想が現れているともいえる。それにしてもヤマウズラはそんなにおいしいのだろうか。
この付近では彼は「相変わらずのベール節だが」と言ってみたり、かなりリラックスした様子が見られる。

ライプニッツの最大の敵といえば、一つは「恣意的」であって、もう一つは「仏(フォー)」である。
前者に関しては判断者の無能力のためでしかないものであり、後者は『最新中国情報』に「いまわしい仏の偶像」とあるように、やたらと忌み嫌っている。

哲学者は当時の自然科学が未発達なゆえに、現代から見るとファンタスティックかつ的外れな発言をして冷笑を浴びることがある。
カントが太陽系の惑星にはそれぞれ人類がおり、太陽から離れていればいるど洗練されていると述べたことなどはその例だが、ライプニッツにもそうした箇所がある。
『プロトガイア』においてユニコーンの存在を丁寧に復元骨格図までつけて主張しているのである。しかしイッカクという生物は現実にいるのであって、これは想像力が生んだ些細なミスといっていいだろう。

ライプニッツがプラトンの顔を見せる部分が存在する。『弁神論』の最後の節である。ここではピラミッド状の天上世界が提示され、ある人の全人生が記されている書物が登場する。
そこから見ると人間にはナンバーが付いて見え、書物の番号と対応しているのがいかにもライプニッツらしいのだが、これではまるでアカシックレコードである。彼の未来予知論は最大の謎を含んでいる。
プラトンの対話編は神話が語られて終わることが多いのだが、意図してか偶然か、『弁神論』もその様相を呈している。

ライプニッツ=アルノー書簡v2.124および他の著書において彼の「精神」概念が提示されているのだが、それは人間と動物を分けるものである。
彼は動物に対して世界の重要な構成要素と考え、決してないがしろにはしない。動物は記憶に基づいた判断は行えるが、自己認識をした判断は行えないとされている。
そして人間のみが持っているものこそが「精神」であって、それは「神を認識することが出来、かつ、永遠真理を見出すことが出来るもの」なのだ。精神が神と強い関わりを持っているのは以前述べた通りである。
つまり「家畜に神はいないッ!!」

ショーペンハウアーが絶大な自信を持って刊行している著作『根拠律の四つの根について』の中ではライプニッツが大きく依拠している因果関係および充足理由律に対する考察がなされている。
その中での神の証明に対する反論は、「生成の根拠律は変化にしか適用できない」というものであり、世界の存在に関しては「生成の根拠律」つまり充足理由律は用いることはできないと述べている。
確かにこれだと「世界の存在理由」を求め、神に行き着くという論法は回避されるが、では変化によらない世界の誕生とはどんなものかと問いたくなる。それは一回限りの、特別な事象なのだろうか。
この著作においてライプニッツは実にぞんざいに扱われている。充足理由律をさも自分が発見したかのように大仰に持ち出していると述べているだけだ。
その記述はショーペンハウアーの飼っているプードルについての箇所に匹敵するほど短い。
その文章によれば、彼のプードルはとっても賢いらしい。彼はおそらく植物も育てていたのではないかと思われる。植物ほど「意志がむき出し」のものはないからだ。
この著書は、ヘーゲルに対する呪詛に関しても哲学界随一の充実ぶりだといえるだろう。

2009年10月30日

神は宇宙に心を配っている

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの著作の中でも、『弁神論』は畢生の大作である。
まず何しろ量が多い。彼の他の著作はみな簡潔で、『24の命題』のように論証部分しか書かなかったりと、長々とした論述は排除されていることが多いのだが、この著作に関しては異なった様相を呈している。
そしてそういった特徴からわかることは、彼は果てしなく学識が広いということだ。
『弁神論』の中ではほとんど宗教史の本であるかのようにあらゆる西洋の宗教思想が取り上げられている。キリスト教神学の大家であるアウグスティヌス、トマス・アクィナスは当然として、偽ディオニシウス・アレオパギテスや、スペインのユダヤ神学者であるモーセス・マイモニデス、そしてマニ教やゾロアスター教の教義まで検討されている。
ここに見られないのがニコラウス・クザーヌスだが、エリアーデによると彼は18世紀にレッシングなどが発見するまではほとんど埋もれていたらしい。
今回は『弁神論』から彼の神学、神学を超えた宗教理論を読み解いていこうと思う。
テクストは工作舎の『ライプニッツ著作集6-7』である。

最初に触れられる問題が信仰と理性の一致についてである。これに関してはテルトゥリアヌスなど独特の見解も見られるし、カントも信仰のために理性は場所を空けなくてはならないと考えている。
しかしライプニッツはカント以上に信仰を理性で捉えられるものとしていた。
つまり、理性と衝突する信仰など存在しないと言っているのである。
彼は「もし秘儀が理性と調停不可能であり、また解決できない反論もあるとすれば、この秘儀は把握不可能だというのではなく、そこには虚偽が含まれている」と述べている。
この場合の秘儀とは宗教の教義の一側面と見ていいだろう。そういった教義があるとき多くの宗教、神学はこれは信仰の領域であるために理性的に把握できるはずがないと主張するのであるが、ライプニッツはそんなものは宗教の教義ではないと言う。
もちろん彼の意図はこうして多くの教義を切って捨てていくことではなく、教義が把握不可能な場合われわれの理性が不完全なためと考え、最後までそれを理性で解釈することを諦めなかったのであろう。
このことが彼の宗教概念の根本要素の一つとなる。
その視点に立つと、宗教体験によって報告される奇跡というものはほぼ否定される。
奇跡は神が自ら定めた自然法則に反した現象であり、「奇跡は思ったよりも多くのことを要求する」ために、滅多なことがない限りは行われないとしている。機会原因論に反発するのもそれが神が常に奇跡を行っているようなものだからである。
一方「滅多なこと」としての奇跡というのも、実はわれわれが自然法則を誤解しているからに他ならない。
「神がある法則を曲げるのはもっと適用範囲の広い別の法則を守るため」だと彼は述べている。
これは実はきわめて科学的な立場なのである。例えばマイケルソン=モーリーの実験はニュートン力学では説明できない現象を観測しており、ニュートン力学の観点からすると奇跡である。
しかしこの法則が曲げられたために「もっと適用範囲の広い法則」すなわち光速度不変の原理が発見され、特殊相対性理論へと繋がっていったのだ。
つまり彼の規定する神の法則とは科学者の追い求めるものとなんら変わりはないものであって、修正しながら進んでゆくものなのである。
この点でライプニッツは当時では非常に「科学的」であったことがわかる。

次に前回は軽く触れるだけだった神の証明について考察する。
ライプニッツの神の証明はカントが「宇宙論的証明」と呼んだ第一原因に依るものだということは述べたが、それではトマス・アクィナスのものと区別がつかなかったし、「証拠」が不足していた。
『弁神論』によると、ライプニッツの神の証明を可能とする原理は「矛盾律」と「充足理由律」である。
このうち矛盾律は必然性を定義するもので、神が創れる事物の範囲を定めている。矛盾しているもの、例えば「赤くて赤くないバラ」のようなものでなければ神は創造できるのだ。
充足理由律とは、「あるものが存在するにはそれが存在しないのではなくむしろ存在するようになった根拠がなければならない」という因果関係についての法則で、これに反するような現象は観察できない。カントはこれを含めた因果関係を「カテゴリー」の一つとし、これなしには理性はものを考えられないとした。ちなみにライプニッツの著作の『24の命題』もこの原理の提示から始まっている。
彼の神の証明はこの原則を認めるところから開始するのである。つまり、
1.あるものが存在するにはその存在する根拠がなければならない。
2.(1)により、世界の存在にも根拠が必要である。
3.そのような根拠となりうるのは神しかありえない。
4.よって、神は存在する。
ということになる。問題となるのはやはり3であろう。しかし他の答えは見つかるのだろうか。
ともかく無から有が生まれることを証明するか、世界が最初から存在していた証拠が見つからない限りはこの論法は破れない。
ローマ教皇がホーキングに「ビッグバンは神の御業です」と述べた記録からも、現代のカトリック教会もこの論による神の存在証明を用いようとしていたことがわかる。

『弁神論』はさらに自由と決定の両立の問題についても触れている。
ここでの論点は、「神は最善なる世界を創るものなのだとしたら、そこに自由はないのではないか」という議論である。
ライプニッツはこれについて自由の定義を再確認することによって答えている。
彼の定義する自由の状態とは「自分の能力を満足に行使できること」である。あらゆる状況において論理的に行動し、自分がなすべき最善の行動を行う人間は自由がないのだろうか?それは違うとライプニッツは述べている。
彼は「善という動機は意志を傾かせるが強いることはない」という言葉により、傾向性という概念を持ち出している。
そして彼は自由に関わる三つの状態を区別する。絶対的必然性と、道徳的必然性と、均衡無差別である。
このうち絶対的必然性とは論理的に必然なもの、つまり反対が矛盾を含むものであって、ここで自由を語るのは無意味である。
均衡無差別とは他の者が自由の成立要件として挙げるもので、プラスの要素とマイナスの要素がともに全く等しい二つの選択肢があるとき、いわゆるビュリダンのロバの状態で選択できる能力こそが自由だという論法である。
しかしライプニッツはこのような想定は無意味だとする。そのような状態になるためには世界が選択者を基準として対称に創られなければならず、そのようなことはありえないというのである。
つまり道徳的必然性に関する選択のみが存在し、その必然性はあくまで傾向性なのでいくらでもそうしない可能性はあり、したがって自由も存在するのである。
こう考えると判断の根拠を多く持っているものに自由があることはうなずけるが、神も自由かということには依然疑問があるように思われる。傾向性がとてつもなく強かったらやはり他の選択の余地はないからだ。
ここで持ち出したいのがマーク・トウェインの『人間とは何か』である。トウェインはこの著作の中で人間=機械論を展開しているが、その論は人間は傾向性に支配されるものであり、その傾向性は外部によって与えられるものなのだから何一つ自由な行動などありえないという内容である。
だがこれは視点の問題であり、ライプニッツの言うように「自分の能力を行使できるかどうか」という点では自由であるといえる。
この自由の定義の根底にあるのは「自由とはサイコロが転がるようにランダムに行動を決定できることなのだろうか」という疑問である。
ライプニッツの答えは、確かに傾向性からは逃れられないのだがその傾向性を吟味し、自分なりの順位をつけられることこそが自由な状態なのだということであり、これには説得力があるように思われる。
一方、神の自由については別の弁護がある。世界は他のあり方も考えうるのだが、神がそれではなくむしろこの世界を選んだという事実こそが神の自由の証拠だというのだ。これはたまたま他の選択肢を考えられたから成立する論なのだが、ライプニッツの神においては考えられる(矛盾がない)ということは創造しうるということなので、なんとか成り立っている。
以上のように、彼の最善説にとって自由の問題は最も攻撃されやすい箇所だといえるだろう。

さて、ようやく『弁神論』の主要テーマである悪の存在についてということを考察する。こちらの問題については、議論にさほど困難はない。
『弁神論』の結論を一言で表すならば、「神は宇宙に心を配っている」ということになる。善というものを宇宙規模で判断するものだとしたことにライプニッツの特異性がある。
その考えによれば、あらゆる道徳的悪も物理的悪も総合としてはプラスであり、善のために役立つものなのである。
物理的悪、痛みや苦痛、についてはこの考えは実に整合する。痛みというものはそもそも悪い目的のために存在するのではない。肉体が危険にあっているという信号として発せられるのだ。風邪を引いたときの熱も同様に、なんとか治療を行おうとする結果として熱が出るのである。そのため無理に熱を下げる行動は体にとって害ともなりうる。
こうした生物学的見地からすれば、物理的悪は何かの役に立っている。
では罪に代表される道徳的悪はどうだろうか。これに関してもライプニッツは同様の考えだが、ある罪を防いだら自分も罪を犯さざるを得なくなるという例を出しその悪を容認しないことにはより多くの悪を生み出すことになると述べている。
しかしこれでは世界に悪が存在すること、神が悪の存在を許したことの説明にはならない。これについて彼は悪を善の欠如と捉える見方で対応している。そうすると先の例も「より小さな善」対「より大きな善」となって神が悪を存在させてはいないことになる。
この方法は確かに巧妙な視点の変更かもしれない。しかしこれ以外に悪を説明する論法はないのだ。ニーチェが述べたように悪は善があって初めて存在するものであって、善のあるところには悪もある。善悪の基準の設定こそが悪の原因なのだ。
だからこれは「左はなぜ存在するのか」と問うているのと同じことなのである。それには「右があるから」としか答えようがないし、左について「あまり右でない状態」という定義をすれば確かに左は消滅するだろう。

善悪の概念を設定する際に重要なのはその道徳的有用さである。ニーチェの「善悪の彼岸」の思想は刺激的でこそあれあまり道徳において役立つものではないが、ライプニッツの宇宙的道徳は現代でも十分に通用しうるものである。
「神は宇宙に心を配っている」から帰結することは、他者を、それが動物だとしてもないがしろにしないという姿勢である。
善は自分の利害だけではなく、あらゆるものの利害をあわせて考えるべきなのだ。何だか「最大多数の最大幸福」に通じる考え方のようだが、これは一つの道徳的指針を打ち立てていると言ってよいだろう。
そして「災難はいっそう大きな完全性に到達するための近道」と言ったときにそれは不幸の苦しみを和らげてくれるのではないだろうか。
彼のこの論理的な推論の末に出された宗教的な結論は十分に評価なされるべきだと思う。

2009年09月25日

スーパー哲学WARS 〜中世編〜

さあ今まさに始まろうとしているのは、天下一の哲学者を決定する、頂上決定戦の第二回です!実況は私岸本、解説はジョルジュさんです。
「西谷さんはどうなさったのです?」
彼は・・・いわゆる純粋形相になる旅へと出られました。あなたもそうならないよう気をつけてください。
「ミトラ=ヴァルナにかけてそうはなりません」
さて、今回は中世編ということでだいぶマニアックな顔ぶれですが、それぞれの選手が「神」という後ろ楯を持っています。この「神」が何らかの手段で打ち倒されても、本体が倒れても負けとなります。
「つまり第三部ということですね」
なんのことですかジョルジュさん。試合が始まりますよ。
選手の入場です!まずはテルトゥリアヌス選手!彼の神は理性で捉えきれない形を取っています。
「それってどんなですか」
クトゥルフっぽいのでしょう。
「めっちゃ邪教ですが・・・」
次にヒッポのアウグスティヌス選手!おおっと『マニ教・・・』と呟きながら暴れまわっている!これは「回心前」モードだ!
さらにカンタベリのアンセルムス選手!彼の神は想像する人によってその姿を変える『完全な神』です。
さて試合開始・・・おおっとアウグスティヌス選手、開始の合図を待たずにテルトゥリアヌス選手に踊りかかった!さすが回心前!ダーティです!
対するテルトゥリアヌス選手・・・逃げました!何か言っています。
『私は逃げた。これは恥ずべきことであるがゆえに、私は信じる』
「ただの変な人ですよそれじゃあ」
ともかく開始早々選手が脱落してしまいました。しかし新たな選手も続々と現れます。まずは偽ディオニシウス・アレオパギテス選手!
「何ですかその偽って」
ディオニシウス文書の著者がわからないからこうやって二次的な名前で呼んでいるのです。
「テントウムシダマシみたいなもんですか」
はい。彼はなんと、天使の軍勢を引き連れています!
この天使の軍勢はそれぞれが彼の指示に従い、ラッパを吹いたり祝福したりするのです!
「役に立たないじゃないですか」
何を!なんと天使の位階は三の三倍。数は三の三倍の三倍の三倍の・・・いるのです。
「三ばっかりじゃないですか」
これが彼の『トリアス』です。もちろん毛は三本、愛読書はサン・テグジュペリ、住んでいるのは三軒茶屋、好きな戦隊は太陽戦隊サンバルカンです。
「ライブマンも最初は三人なのに」
『ヒエラルキア』
おおっと偽ディオニシウス選手、聖なる秩序を構築し他の選手を下位のヒエラルキーに組み込んだ!これでは手が出せない!そして走り出したが・・・相手の前を通り過ぎててしまった!どういうことでしょう?
「歩数が三の倍数じゃない・・・」
ドストエフスキーですか。彼がまごまごしている隙にアンセルムス選手が活路を見い出します。
「私の神は完全である。ゆえに、私より上位などありえない」
「ははーっ!」
なんと上下関係に厳しい偽ディオニシウス選手、アンセルムス選手の神にひれ伏してしまった!これは失格です。
勝利したアンセルムス選手に、動けるようになったトマス・アクィナス選手挑みかかる!
まずはお互いの探りあいから。トマス選手が口火を切った!
「完全だから存在するってそんなのあるか」
「ばかめ、頭の中で考えられたということは、それを認めてしまっているということよ」
「ではもう一つ試してみよう。出でよ、『完全武装の神』!」
「何てことだ、完全な神より完全なものがあるなんて!ばかなあぁっ!」
アンセルムス選手、完全武装の神のRPG攻撃を受けて爆散しました!どちらも完全ですが、実力がある方が結局すごかったわけですね。
「この辺は次回ライプニッツが蒸し返してくれるでしょう」
狡智でアンセルムス選手を倒したトマス選手だが次の手は?
『アナロギア・エンティス(存在の類比)!』
おお!完全武装の神から『本質』を取り出し、それを『分有』することによってパワーアップ!別の戦場へと向かいます。
彼の向かう先ではスコトゥス・エリウゲナ選手とロスケリヌス選手が『普遍論争』を繰り広げています。
『個物に先立って』普遍を構築しようとするエリウゲナ選手に対し、ロスケリヌス選手は『普遍より先』に個物で攻撃しようとしています。お互い先手を取ろうとしているせいで膠着状態だ!
「卵が先か、コロンブスが先かみたいな話ですね」
何ですかそれは。ロスケリヌス選手、らちがあかないと考え、音波を自在に操る『フラートゥム・ウォキス(音声の流れ)』を使い攻撃します!耳を押さえて苦しむエリウゲナ選手!
しかしここにトマス選手が現れ、エリウゲナ選手を手助けします。
『普遍は個物の中にある』
「ウボァ!」
驚くべきことです!ロスケリヌス選手の内部から普遍が飛び出し、彼の腹を突き破りました!まるでエイリアン!
「あー肉片がここにも」
消滅したロスケリヌス選手!しかしここに尺八の音とともに新たな選手が!坊主頭に着流し姿、まるで座頭市だ!誰なんだ!
「名札がついてます。なになに・・・ウィリアム」
なるほど、オッカムのウィリアム選手です!名前にこだわる彼らしい!
ウィリアム選手、手にした仕込み杖『オッカムの剃刀』でトマス選手とエリウゲナ選手を真っ二つ!
「またつまらぬものを増やしてしまった」
存在を増やすことに否定的な彼ならではの発言です!
そして次の犠牲者を探すと思いきや・・・ウィリアム選手本物の剃刀を取り出すとスタジアムの端で倒れていたプラトン選手の髭を剃り始めました!
「まだいたんですかプラトン」
彼はいつまでも生き残るのです。ニーチェが言ってました。
さらにスタジアムにはニコラウス・クザーヌス選手が登場し、偽デュオニシウス選手から受け継いだ秘技を発動します!
『否定神学!』
出ました『否定神学』です!さあ何を否定するのか!?
「私は昼にも夜にも、武器によっても素手によっても倒されない」
おおっと敗北を否定したぁ!これでは無敵か!?
「ちなみに今はもう夕暮れ時ですよね。夕飯食べなきゃ」
誰かと同じことを言わないでください。ところで、戦闘に参加せずタバコを吸っていたアウグスティヌス選手ですが、彼の神に「お前何してんだよ!」と叱られ回心したもようです。
回心後は三位一体の信仰力をぶつける「トリニティブラスター」を得意とします。
「うぐわぁぁ!」
ニコラウス・クザーヌス選手トリニティブラスターをまともに喰らって吹っ飛んだあ!
どうやら否定が足りなかったようです。武器でないものは想定していなかったか。ニコラウス・クザーヌス選手ここでリタイア!
「まるでマクベスですね」
むしろナムチと言ったらどうですかジョルジュさん。インドはご専門でしょう。
戦いは佳境に入って参りました。次々と新たな選手が現れ、激闘を繰り広げています。
アルベルトゥス・マグヌスもいる、ボナヴェントゥラもいる、ドゥンス・スコトゥス、ガンのヘンリクス、そしてマイスター・エックハルト選手も見られます。
「こりゃ終わりそうにないですねぇ」
おおっと、その呟きを受けたのか、呼んでもいないのにマルティン・ルターが95ヶ条の抗議文をスタジアムの壁に張りながら現れました!迷惑です!
さらにウィクリフ、フス、カルヴァンまでもが控えています!競技を止めにきたのでしょうか?ルターが口を開きます。
「お前達、何を争っているのだ!キリストの教えは一つのはず!意見を対立させ分裂するなど愚かなことだ!」
これに対して、各選手一斉に「お前が言うな!」とブーイング。結局混乱を拡大しただけでした。
「お前おかしい、異端!」
「そこは違う、ヤコブだろ」
「デーミウルゴース!」
もう滅茶苦茶だ!火刑大好きトルケマダのトマスも頭に二本の松明を差して乱入!
「A CHI CHI A CHI 燃えてるんだろうか♪」
燃えてますよ!もはや収拾がつきません!哲学と神学の区別も不能!
「こうして光と光の戦いは未来永劫続くのであった・・・」
え、ちょっとジョルジュさん!これで終わり!?

2009年09月15日

スーパー哲学WARS 〜古代編〜

さあ今まさに始まろうとしているのは、天下一の哲学者を決定する、頂上決定戦です!実況は私岸本、解説は西谷でお送りします。
「よろしくお願いします」
ルールは人数時間無制限のデスマッチ、最後まで立っていた選手の勝ち!場所は哲学発祥の地、ここミレトスのスタジアムからお送りします。
「ずいぶん乱暴なルールですねぇ」
いいんです。さてまずは選手の入場です。おおっとぉ!スタジアムの水溜まりが一ヶ所に集まり、人の形を形成していく!彼こそミレトスのタレス選手です!
「万物は水、ですからねぇ」
そして今スタジアムに等身大のスクリーンが現れました!それは無数の数字を映しています!その数字が次第に集まっていき現れるのは・・・ピュタゴラス選手だ!
「電送人間かって」
その他大勢の選手が登場しました。ここで試合開始!
早速タレス選手、水を滴らせながらヘラクレイトス選手に襲いかかります!対するヘラクレイトスが叫んだ!
『万物は流転する』
おおっと!その言葉通りタレス選手は転び、そのまま流されていってしまったぁ!
「水だけに、流転に弱いんでしょう」
一方では、デモクリトス選手が圧倒的な強さを見せております。出た!必殺技だ!
「原子分解!」
豪華な衣装のエンペドクレス選手、原子レベルに分解され消滅してしまいました。強い!強すぎる!
さあ次の犠牲者を探すデモクリトス選手!狙ったのはピュタゴラス選手だ!
「原子分解!」
おっとしかしピュタゴラス選手意に介していないぞ?なぜだ?何と頭のディスプレイに数字が現れています。その数は23・・・これはもしや素数!これは分解できない!
「原子分解と素因数分解をかけてるんでしょう」
しかしデモクリトス選手ひるまず、ピュタゴラス選手の胸のタブレットに指で正方形を描くと、対角線を引いたァ!こっこれは、無理数です!
「1.41421356237309・・・」
ピュタゴラス選手計算しきれず、ついに彼の体内のコンピューターが爆発してしまいました!
「本当に数で出来てたんですね、彼」
勝ち誇るデモクリトス!しかし突然彼は倒れ、ピクリともしなくなってしまいました!同時にあのヘラクレイトス選手も!これはもしやアナクシマンドロス選手の『ト・アペイロン(無限定なもの)』!
「で、結局それは何なんですか」
何でもありなんです。さてここで反則的な技が出てしまった!選手が次々とわけもわからず倒れていきます。立っているのはパルメニデス選手!ト・アペイロンが襲いかかるその時!彼は叫んだ!
『在るものはあり、無いものはない』
なんと!無いものだったト・アペイロンは消滅し、それと同化していたアナクシマンドロス選手も消えました!
「見えないから分かりませんがね」
そこへ、棍棒を手にしたアナクサゴラス選手が突撃!
「オレは在るぞぉぉぉぉ!」
しかしパルメニデス選手の背後から現れたエレアのゼノン選手が技を使います!
アキレスと亀!』
信じられない!パルメニデス選手は歩いているのにアナクサゴラス選手追いつけない!そこで追い打ち!
『飛矢不動!』
ついにアナクサゴラス選手動けなくなってしまいました!
「最初からそれを使えばいいのに」
身動きの取れない彼にゼノン選手が止めを刺します!
『競技場!』
なんと、単位時間だったはずのアナクサゴラス選手が真っ二つに割られてしまいました!
「ここんとこ少しわかりづらいですねぇ」
しかし彼の栄光も長くは続かない!そこへ新たに現れたゴルギアス選手を筆頭とする総勢50人のソフィスト軍団、やみくもに突進するとエレア派の二人を踏み潰してしまいました!プロタゴラス選手とトラシュマコス選手が勝ちどきをあげます。
『われわれが万物の尺度である』『勝てば官軍』
が、彼らは軍団に混じっていたソクラテス選手の説得によりアポリアーに陥り、全員帰ってしまいました。
「彼が一番ソフィストな気がしますねぇ」
ここからは少数の戦いです。ソフィスト軍団を全滅させたソクラテス選手に対し、満を持してスタジアムの東門から太陽を背にしたプラトン選手が現れました!
「そう言えばまだ朝ごはん食べてませんでしたねぇ」
西谷さんあとにしてください。プラトン選手は豪華にも二頭立ての馬車に乗っています。片方は黒、片方は白い馬だ!
ところが黒い馬の方が暴れだしてそのまま反対側の壁に激突してしまったぁ!
「欲望的部分を制御できなかったのでしょう」
しかしプラトン選手しぶとく立ち上がります。ここで師弟対決実現か!?
プラトン選手、三角形のイデアを無数に発生させて投げ付けます!危うしソクラテス!
『無知の知』
どうやらソクラテス選手、イデアを知らなかったようです!これでは効果がない!
さらにソクラテス選手にダイモーンが乗り移った!これで通常の三倍の速さだ!対するプラトン選手は?
『洞窟の比喩』
おおっと洞窟にこもってしまった!ソクラテス選手手が出せない!
「そういう設定ですからねぇ」
戦闘は膠着状態に陥りました。プラトン選手は引きこもり、ソクラテス選手はいつもの癖でポケーッとしています。
ここで戦況に変化が!スタジアムの端に落ちていた木の実があっという間に巨木へと成長すると、歩き出しました!アリストテレス選手です!
「可能態から現実態へと変化したのでしょうねぇ」
まるで指輪物語だ!彼はプラトン選手の洞窟を破壊して生き埋めにするとソクラテス選手へ向かいました!
「プラトンは鎖に繋がれてましたからねぇ」
にもかかわらずプラトン選手、瓦礫の中から登場!プラトンしぶとい!そして彼が『アナムネーシス(想起)!』と叫ぶとノコギリが現れました。何をするつもりでしょう?
『制作物モデル』
なんとプラトン選手アリストテレス選手を切り刻むと材木にし、そして机を作ってしまった!
「これでは机が形相になりますから、これ以上進化できませんねぇ」
悔しそうなアリストテレス選手!さらにプラトン選手はソクラテス選手にノコギリで斬りかかります!
『ソクラテスの弁明』
おっとソクラテス選手降参だ!弁明をしますが通じません!
『逃げれば不正に不正を重ねることになる』
ソクラテス選手逃げない!そのままノコギリで両断されてしまいました!
「ひどい弟子ですねぇ」
プラトン選手、このままアリストテレス選手を切り刻んで勝負を終わらせるのか?
ここでサモス島の第二会場の報告が入ってきました。それによると、ここではピュロン、エピクロス派の選手、ストア派の選手が出場しているのですが、お互い
『エポケー』
『アタラクシア』
『アパテイア』
と放心しあって勝負にならないそうです。以上、第二会場の情報でした。
話を戻してプラトン選手、机に近づく!対するアリストテレス選手は何か呟いているぞ?
『目的因:敵殲滅、作用因:気合・・・』
アリストテレス選手、机を気合で突き破って登場した!その首は四本!倒れたタレス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、エンペドクレスの首をわがものとしている!まさに形而上学的存在!
「ガンダルヴァみたいですねぇ」
さあここに第二の師弟対決が幕を切って落とされた!他方プラトン選手も哲人王へとバージョンアップ!詩人を粛清してゆく!
「迷惑ですねぇ」
ここでついに本大会トリを務める人物、プロティノス選手が『一者』
を伴って登場だ!
プロティノス選手強い!攻撃をしようとしても
『帰還』
で一者と合体してしまうし、彼らが油断すると
『流出』
で一者から現れて奇襲をかける!プラトン、アリストテレス両選手はたちまち地に倒れ伏す!プロティノス選手優勝か!?
おおっとぉ!ここで番狂わせだ!プロティノス選手、一者と『合一』してしまい元に戻れない!さらに一者はどこかへ行ってしまう!
『上方へ』
一者!どこへ行くんだ!一者ぁぁぁぁっ!!

・・・というわけで一者とともにプロティノス選手は消え、スタジアムに立っているものは誰もいなくなりました。解説の西谷さん?
「ギリシャだけに、デウス・エクス・マキナですかね。ハッハッハッ」
おまえも質料にしてやろうか。・・・というわけで第一回天下一哲学者決定戦は勝者なしと相成りました。中継は実況の岸本と解説の、
『エポケー』
おまえもアトムにしてやろうか。
「西谷でした」
みなさん、次回をお楽しみに!

2009年08月23日

暗黒への前奏曲

「もしある男が致命的に息が臭くて、会う人会う人に不快感を与えるとする。この人が周囲に貢献、もしくは迷惑をかけないためには、どうすればいいかね?」
「誰とも人と接触しないことです」
「その手段はどんなものがあるかね?」
「誰もいない無人島に行くか、この世からいなくなることでしょう」
「その二つの手段にはどんな違いがあるだろうか?」
「無人島の方は当人の意志もしくは偶然により、世間に復帰する可能性があります」
「そのことは他者にとって利益かね、不利益かね?」
「彼のその性質のみを考えるのなら、不利益でしょう」
「ということは無人島の方は後者の不徹底なものであって、よりふさわしいといえるのは後者だと言えるかね?」
「言えますね」

「ではそこで考えてみたまえ。先ほど挙げた人物、これを近づくものにすべてマイナスの利益を与えることから『暗黒』と呼ぶことにするが、この『暗黒』が自分の悪臭にまったく肯定的で、自分では何ら不利なこととは思っていないとする。このとき、周囲の人の被る損害は減るかね?」
「いえ、変わりません。本人がどう思おうと、悪臭は消えません。むしろ、彼が積極的になることによって被害は増すと考えられます」
「ならば君は、ある人間の価値、世の中への貢献度合いは、本人の意志に関わらず決定される、ということに同意するのかね?」
「いいえ。意識の面では、確かに価値には何ら影響を及ぼしませんが、行動に繋がる意志に関しては別です。この場合なら、香をたくなどして悪臭を消すか、悪臭が与える損害以上の貢献を周囲になすことによって、価値を生み出すことができます」
「その時、『暗黒』当人にとっては先ほどの肯定的に考える場合に比べて損かね、得かね?」
「他者には必要ない努力を要するという点で、損でしょう」

「すると『暗黒』の身の振り方には三通りの道が考えられるわけだ。この世を去る(1)、肯定的に考えるつまり何もしない(2)、努力して欠点を補う(3)、このうち(2)では他者に、(3)では当人に不利益があることがわかっている。とすると(1)が最上の答えということになりはしないかね」
「死について何らマイナスの評価を持たない限りにおいてはそうです。しかし死は悪いことで、生が続くことは良いことと考えることもでき、そうすべきです」
「その良い悪いは誰にとっての価値なのかね?」
「死者ではないことは確かです。彼はもう考えることはできませんから。死のもたらす悪い影響を考えると、やはり残された人々にとってでしょう」

「では(1)は周囲に負、(2)も周囲に負、(3)は当人に負となり、どれを取っても損害が出るわけだ。この損害はどこから来るのかね?」
「『暗黒』の持つ悪臭という性質です。これは生得的なものです」
「では別の性質、誰彼かまわず悪態をつく、などはどうかね」
「これは本人の行いの結果によるものでしょうが、望んでそうなる人はいないのでやはり自然に身に付いたものだと考えられます。そして容易に手放せない、やめるのに努力を要するためにこれに加えてもよいでしょう」
「すると人は、偶然的にこういった逃げ場のない不利益に見舞われるということだね」
「はい」

「この誰かに損害をもたらす性質とはどのようなものだろうか?」
「今までの例でわかるように、周囲に不利益を与えるのみの行動および性質です。盗みなどは当人には利益と言えるので、これにはあてはまらないでしょう」
「そんな性質が存在するのかね?悪態をつく場合は当人にとって気分が良くなるので得と言えないかね?」
「そうですね・・・では『暗黒』の持つ性質の定義を『不可避的に周囲に損害をもたらすこと』としましょうか。意志で簡単にやめられることはつまり(3)を労せず選べることなので、他の選択肢は必要なくなります。盗みについては意志で止められる限りこの定義から排除されます」

「ではもう一つ、『暗黒』は他の者より死、つまり自殺に近いとは言えないかね」
「言えるでしょう。日々(2)か(3)を選び、(1)を選ぶのをやめる点で常に死が思考に上っていると言えますし、さらに他者や自分の損害より死の方が軽いと考えうる場合、特に『暗黒』の不利益が大きければ大きいほど――(2)(3)の不利益が増大するのに比べ(1)の不利益は変化しないので――(1)が可能性を持ってくるでしょう」
「ではそのように(1)に近づく人間は罪かね?」
「『暗黒』の性質が不可避のもの、望んだものでない以上、悪いと言うことはできないと思います。さもなくば、存在自体が許されない人間がいることになってしまいます」
「ということは、世の中には偶然かつ逃れようもなく死に近い人間がいて、そのことは仕方のないことだ、と言えるかね?」
「言えます。われわれがその性質について意見することはできますが、真っ向からそれを否定することは彼の性質を否定することになり、それはさらに他者が甘んじて受け入れるという(2)の可能性を潰しますます(1)に向かってしまうので、すべきではないことです」
「それならば、誰かが『暗黒』のようなものだった場合、どの選択肢を取るように意見するのが良いだろうか」
「(1)は防がねばなりません。(3)が実行されるに越したことはないですが、どこから来たのかわからない負担を本人にすべてかけさせるというのは幾分非情でもあります。周囲の者は(2)を多少なりとも考慮するべきではないでしょうか」
「よろしい。『暗黒』の持つ性質の理解ができたところで、この話はここまでとしよう」

2009年08月05日

ID論との実践組み手

前回進化論について調べている際「適者生存」「同語反復」で検索したらWEB上に愉快な文章を発見した。
これがその全体である。
なんとこの著者の渡辺久義という人物、創造デザイン学会の代表であることがわかった。
今回は氏の文章を読みながら、進化論への攻撃に対する反論を生兵法ながら行ってみようかと思う。
というわけでここからは丁寧語です。批判するのだったら丁寧なほうがよいと思うのです。

第二段落「曖昧な<生命><進化>」からいきましょう。
生命というものの中心に機械作用を見るのだから、それは立派な唯物論だが、唯物論だと言われると否定するようなところがある。
万有引力の法則も生物に適用されるし、機械作用なんですがこちらに文句は言わないのでしょうか。唯物論とは「見方」であり仕組みを説明するものではありません。つまり科学の手法に唯物論と言うのは「あなた科学だね」と言うことと同じです。生物学だけ唯物論ではいけないという理由は何なのでしょう。
「進化」を生命の高度化・複雑化という意味に解する限り、進化があったことは確かである。
進化とは高度化、複雑化ではないということはイースト・プレスでも言っています。使わなくなった翼が飛べなくなるのは高度化でしょうか?進化は単に「親とは違うものになること」です。
複雑化へ向かう性向は進化の流れでは発見できません。グールドは『フルハウス』の中で最単純からは複雑へしか向かうことができないが、複雑なものは単純へも複雑へもランダムに向かうので、結果として最単純から最複雑までの生物の種ごとの数は統計的な確率分布の図として表せると言ってます。今も昔もバクテリアが一番多いのです。
個々の生命体あるいは生命種が進化したという証拠は少なくともないのである。
生命体は進化しません。それだとラマルクの説になります。進化は二つの個体間にのみ見られるものです。親とは違う子供が産まれるという点で、生物学の言う進化の証拠は誰もが目にしていることです。
以前にも書いたように、時計というもの(のアイデア)が進化するのであって、日時計や水時計が徐々に変形して振子時計や電気時計になるのではない。
時計は進化しません。自己複製する生物ではないから。「親とは違うものになること」でなければならないので、爆撃機がステルス爆撃機になるのは生物学的な進化とは別のものです。
研究が進むほど、生命世界はデザインされたものとしか解釈できなくなるのに、
研究が進むのでなくて「哲学が進む」とそうなるような気がします。生命はデザインされたものであるとは、はるかな昔から言われてることじゃないですか。
とりわけ「自然選択」などというのは、まさに魔術というべき概念であり、
「十分高度に発達した科学は魔法と区別が付かない」
アーサー・C・クラークの言うとおりです。多くの人は区別がついていないんでしょう。
「適者生存」にいたっては全く話にならない同語反復である。
前回説明したとおり、反対論者はここを見つけては鬼の首を取ったかのように喜ぶ傾向があります。
こういった言葉を組み合わせて生命世界を説明したことにしようというのは、最初の生命概念が、そんなことで説明されうる程度の生命概念でしかなかったということである。
その程度の生命概念なのです。「自己複製する生物」というだけなのだから。でもこれで生命の進化が説明できるからこれを使っているのです。
にもかかわらず、それを唯一公認された学説として認め、他の考え方は認めないなどというのは、学問する者として許しがたいことである。
確かに大上段から他の論を否定するのであったら科学としては間違っています。もちろん、進化論も科学の理論である以上、いつかはそれに代わる説が出てくるかもしれません。でも、進化論は強力なライバルを何人もなぎ倒してきたという経歴があります。それは発表直後から現在まで続いているのです。そのくらいの反対論を否定できるだけの論ができてから進化論と肩を並べたいと言ってください。
この理論(進化論)の我々の内面に及ぼす破壊的な効果がどれくらいのものであるか、考えてみられるとよい。
ここに進化論否定派の動機の顕著なものが現れています。「それを認めると生の価値が下がる」というものです。でも進化論から意味を見出せというのは科学の側からは言っていなく、解釈する人が勝手にマイナスの意味を見出しているだけのことです。日々元気に生きるとか、生を促進するのは哲学や宗教であって、科学がそれを気にしなかったからといって問題はありません。
第一に、自然法則というものが、十九世紀に考えられたように非情で機械的で生命をもたぬものではなく、今この地上に存在する生命のためにあらかじめ定められたものであるという、あらゆる印象を支持する証拠が出揃い始めている。
「あらゆる印象を支持する証拠」というかその言説は昔のほうが盛りだくさんだったんですって。ライプニッツを見てください。
昔そういうことがすでに言われていたのだから、今目的論が出てこようと何ら真新しいことではありません。
そしてそれは、進化の全行程が最初からDNAという台本に書き込まれていたのではないかという、比較的詳細で、確からしい推測に根拠を提供する世界なのである。
DNAはアカシック・レコードなんでしょうか。DNAは個々の生物の設計図(正確にはレシピに近い)であって、過去や未来には何ら関わりを持ちません。
過去との繋がりがわかるのは、過去の生物と比較してその変遷を系譜学的にたどれるからです。
またここでもライプニッツっぽいです。ライプニッツの先見の明は驚くべきものです。

話は「自己組織化」仮説へと移ります。どうもこちらのほうがより目的論的なので、著者に評価されているようですね。
秩序が生命そのものか、生命の情報であるかのようにこの理論は思い込み、思い込ませたがるが、秩序とはそういうものではなかろう。(生命情報は誰かが書きかつ実行するものでなければならないが、単なる秩序はそのようなものではない。)
秩序は生命の起源といえるものです。たんぱく質とかが一箇所に集まったら、集まる前よりは生命に近いと言えますよね。エントロピーで考えてみましょう。エントロピーの減少はすなわち何か形のあるものができるということになります。
この著者、進化論はわかっちゃいないのにこちらの論が進化論に似ていることはわかるようです。不思議な話です。

総じて言えることは、どうして進化論を認めると目的論的見方はそんなに立場を失うのかということです。
宗教における神はどんな述語でも取りうるのに、「神がダーウィンを導いて自ら創った法則である生命の発生原理を発見せしめた」とは誰も言わない。神は自分の手の内を明かされることを嫌うほど狭量なのでしょうか。
生物学があったからといって神の活躍する場は沢山残されています。人間がより良く生きるためにはどうすればいいかとか、そういった科学が何も言えない分野に対してもっと大事な提言ができるのではないかと思うのです。

2009年08月04日

なんとまともなマンガだった『種の起源』

イースト・プレスという団体が出しているマンガ集がある。「まんがで読破」シリーズだ。
このシリーズにはひたすらがっかりさせられてきた。『ドグラ・マグラ』がキチガイ地獄外道祭文がカットされて単なる推理小説になってたり、『悪霊』が脇キャラの魅力が全く感じられなかったりで。原作を読んでいるものは落差が激しく感じられる。
さらにマンガががすでにある作品はやはりそれらに叶わない。永井豪の『神曲』水木しげるの『劇画ヒットラー』は巨匠だけあって名も無き漫画家が書いたものにはさすがに比べ物にならない。手塚版『罪と罰』も問題はあるが読む価値はある。
しか良い点もある。しこのシリーズ、やたらラインナップがマニアックなのである。ドストエフスキーで『悪霊』を取り上げるのがまずすごいし、江戸川乱歩より先に夢野久作というところがやってくれる。
そんなこんなでつい買ってしまうのだった。

そして今回出会ったのがダーウィンの『種の起源』である。これはまだ読んでないがグールドやドーキンスにさんざん教義を教え込まれている。
間違いがあれば即突っ込むつもりで読んでみた。

ところがこれが意外とよくできていた。同シリーズのツァラトゥストラや資本論みたいに変な寓話にすることなしに、ダーウィンの伝記として組み立てられているのだ。
進化論以前の言説も紹介されているし(特にペイリーの時計は重要な概念)、ライエルの斉一説も出てくる。動物のイラストも丁寧だ。
ダーウィンがどんな流れで進化論を組み立てたのかわかるし、「『種の起源』では人間について触れなかった」「出版はものすごく慎重だった」といったような事情も解説されている。
誤解を招きそうな極端な表現もない。これは良著である。

一つ気になったのがラストの英国王立科学研究協会のシーン。反対者として大英博物館のリチャード・オーウェンが挙げられているが、この会の反対者で最も有名なのは主教サミュエル・ウィルバーフォースであろう。
ハクスリーに「あなたは猿が祖先だとおっしゃるが、あなたの猿の祖先は母方ですか、父方ですか」と訪ね、「あなたのような人物を祖先として持つよりは猿のほうがずっとすばらしい」と返されたという有名なエピソードがある。
てっきりこれが出てくるかと思ったのになかった。マンガでは十字架を付けた人物が賛同して拍手しているが、これがウィルバーフォースなら最後まで納得していないはずである。
もっともこの逸話は誇張されたものであることが確かグールドによって述べられていたので、それをも考慮してのことならとてもすごいということになる。

全体的に満足だが、最後の進化論の説明が少し不安を感じる。
まず適者生存という表現。これは危険をはらんだ用語である。なぜなら「適者とは何か」があいまいだからだ。
「生存したものが適者」とすると同語反復になってしまい、これは進化論への批判としてよく持ち出される。
ただ生き残るものとそうでないものがいるというだけであって、適者がどんな条件を備えているかは統計的にしか言うことはできない。
とにかく進化とは@ランダムな変異が存在してAそれがたまたま生存に有利ならばその変異が保存されBその積み重ねで生物の能力が変化するということに他ならない。
さらに気になるのがカンブリア大爆発の説明である。これはグールド的な見方では以前『ワンダフル・ライフ』の解説で述べたようにカンブリア紀の進化が何か特別であったかのように思われているが、ドーキンスによる批判によればそれは現在の種に当てはめるから門や綱レベルで個性的な種(アノマロカリスとか)が沢山出たように見えるのであって、分化の初期段階ではいくらでも独自の生物が造られたのだということが言われている。
マンガでは「現生の生物の基礎設計をもった化石生物が突如出そろった」と言われているが、以前書いた記事にあるようにバージェス頁岩の動物の中で人類の先祖となったのはピカイアのみだろうということになっており、このような話はどこにも述べられていないことである。

進化論はとかく宗教、特にキリスト教と対立をもたらすものである。別に対立する気があるわけではないのに、宗教のほうから喧嘩を売ってくるのだ。この点もしっかりこのマンガでは語られている。
確実に言えるのは、イースト・プレスは(進化とは違う方式で)進歩しているということであり、イースト・プレスが進歩しているのだったら人類にもまだ希望はある、と強引なことを言いたくなるのだった。
次回、たまたま進化論へ反対する議論を発見したのでそれとの対決を試みてみることにする。
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2009年08月01日

ライプニッツの道徳論

前回ではライプニッツの思想の基礎となる概念を紹介したが、今回はそれを基にして彼がどのようなことを考えているのか、道徳的、形而上学的な帰結を見ていこうと思う。

さて、ライプニッツの思想に大きく関与しているのは、キリスト教はもとより、プラトンである。
『パイドン』を見てみよう。ここでは魂が不滅かつ不死であるというソクラテスの論証が長きにわたって語られている。
ライプニッツの場合魂は不死であるという前提を受け入れ、それと分解してもこれ以上分けられないという原子論を組み合わせて、モナドが誕生したと言える。
『形而上学叙説』34節に「魂や実態形相は、ほかの哲学者たちの説にある原子すなわち物質の究極部分と同じように、完全に滅びることはできないということを認めないわけにはゆかない」とあることからもこれがわかる。
さらにプラトンの寄与がある要素がある。「動力因」と「目的因」の区別についてだ。これはアリストテレスの用語だが、動力因とは自然科学的な手法で現象の原因を調べることである。目的因は、ライプニッツにとっては「神の目的を考えること」であり、これが欠けた科学は危険であると言っている。
同著19節で「結果は原因に対応すべきものであり、しかも原因を知ることによってもっともよく知られるのに、万物を支配する最高の叡智を導きいれておきながら、次に現象を説明する段になるとその知恵を用いないで物質のいろいろな特性だけを用いるというのは、理に反するからである」と言っている。
これはガリレオの「私にはとても思えない。造物主が我々に知性を与えておきながら、それを使わぬようお望みになるなどとは」という言葉と似ており、当時の科学が「神の法則を明らかにする」ことを目指していたことがわかる。目的因を考えないものは唯物論者であり、それに『パイドン』で反発する意見が述べられていたことを20節で引用し、大いに共感が述べられている。
結局これは「自然そのものに造物主の意志がこめられている」という古代の意識と、「自然はわれわれに説教をたれるために存在しているのではない」という現代の意識の対立を如実に表しているのである。
もちろん後者のドーキンスの発言が現代の科学の姿勢であって、前者のようなものは今は過ちとされている。

次に彼のオプティミズムに基づいた道徳観について見ていこう。
世界がすべて善いのであったら、どうして悪は存在するのか。この神学的な論争は善を唱えるものにはつきまとうことであり、ニーチェが最も彼岸に送りたかった、つまりお陀仏にしたかった考えでもある。
このことに触れている部分は、『形而上学叙説』30節にある。
「なぜユダのような裏切り者が、神の観念のうちでは可能的であるにすぎないのに、現実には存在するのか」可能的の意味については重要なのでもう少し詳しく考える必要があるが、この問題に対しての答えはこうだ。「この問いにたいしては、この世で期待すべき答えはない」と。
これではあまりにも説明放棄である。この先の発言も錯綜している。最善論に基づいてこの罪人の存在が含まれている事物の系列が他のあらゆるやり方のうちで最も完全なものに違いないのだが、被造物は不完全であるためにこういうことをすると言っている。
つまりそこには「神の思し召しだ」そして「なるようにしかならない」という意識があるのだ。なんとも諦めきった態度だが、宗教としては妥当な言い分である。
一方『事物の根本的期限』『必然性と偶然性について』では一歩進んだ見方がとられている。
「世界は道徳的にもっとも完全」であるが、良くないことは起こる。それは一見してそう見えるが、「部分はかき乱されても全体の調和が破壊されることはない」しかし全体が良ければ部分はどうでもよいというわけでもないらしい。個人の善にもできるかぎり考慮が図られねばならないと言っている。
結論として彼は「災難はいっそう大きな完全性に到達するための近道」であり、「罪や悪を認めることが善をいっそう大きくするために適当」であるということに達する。「にがいものを味わったことのない人には、甘いものの味はわからない」のだ。
災難が起こっても、それはより大きな目的に達するための過程であって、それに耐えていこうというのが彼の善悪に対する意見である。
こう見るとオプティミズムは楽観的だが、それを信じることが日々の支えになる、とも思えてくる。

ライプニッツの個体概念によると、「現在は未来を含む」という不思議な思想が出てくる。それは運命論の様相を呈しているが、どこか異なっている。
『形而上学叙説』8節で、「神がアレクサンドロスの個体概念、すなわち<このものたること>を調べてみるならば、アレクサンドロスについて真に述べることができるすべての述語、たとえば、彼はダリウスやポルスを打ち破るであろう、といったようなことの根拠と理由をそこに見ると同時に、彼は自然死をとげるのかそれとも毒殺されるのかというような、われわれには歴史によってしか知ることのできないことを、ア・プリオリに知ることまでもできる。それゆえ、ものごとのつながりをよく注意してみるならば、アレクサンドロスの心にはいかなるときにも、これまでに彼に起こったあらゆることのなごりやこれから起こるはずのあらゆることの兆し、さらには宇宙において起こるいっさいのことの手がかりさえもある、と言うことができる」と彼は述べている。
つまり一人の人間の中には過去と未来がすべて詰まっているのである。
これを神のみが知れるのであれば運命論だが、そうではないということも主張される。13節ではある人がカエサルという主語と彼の幸運な事業という述語との結合をすっかり証明することができれば、彼の行ったことの理由付けがなされると言っている。
「主語と述語の結合を証明」というのがよくわからないし、歴史的なものと数学的な解釈が入り混じっているように思われるのだが、人物の行動の根拠はその概念に内在しているのである。何だか「カエサルが禿頭だったことを見れば、彼が暗殺されるということがわかる」と言っていたエリファス・レヴィが思い出される内容である。
ここまでなら「人物から行動がわかる」ということでしかないが、どうもライプニッツは人間は未来をはらむが、同様に万物も未来を含み、宇宙全体を表出していると考えていたようだ。
「私たちの体は、すべて星の物質でできている。私たちは、きわめて深い意味において“星の子”なのである 」と言ったカール・セーガンの言葉に繋がるものがあるが、一方で宗教的でもある。
その根拠はモナドにある。モナドという要素において、万物は同一であり、一つには全体が含まれている。『モナドロジー』68節には「庭の草木のあいだにはさまれた地面や空気、池の魚のあいだによどんでいる水、これらは植物でも魚でもないが、じつはやはり植物や魚をふくんでいる」とある。
70節では、「どの生物の体にも、おのおのそれを支配するエンテレケイア(モナドと同一視してよいと言っている)があり、動物の場合、それは魂であることがわかる。しかし同時に、その体のどの部分にも、他の生物、植物、動物がみちていて、そのおのおのが、またそれを支配するエンテレケイア、ないしは魂をもっていることもわかる」と述べている。
こうして部分の中には全体があり、無限に分割されると言っている。すると「モナドには窓がない」「モナドは分割できない」という先の定義とぶつかってくるが、どれをモナドとみなすのか、より詳しく見ていく必要があるだろう。
彼の宇宙論は、このように非常に大きな広がりをもっていくのである。

これでライプニッツについて、一通りの考察を終えることができたように思える。まだ触れていないのが重要な概念である「共可能」についてだが、これはそれを扱う『24の命題』をまだすべて読み終えていないので、その後に考えてみたい。
神学と科学がせめぎ合う中で両者について道を拓いていこうと考えた人物、それがライプニッツである。
posted by あしがる at 16:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 読むという病R | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

機械じかけのわれわれ―ライプニッツ

ライプニッツはわれわれがあまり触れる機会のない人物である。何せ岩波文庫に著作が収録されていない。いや実際はあるらしいのだが五十年前のもので絶版である。筆者などはライプニッツを天文学者だと思っていたのだが、何と間違えていたのだろうか。
彼を哲学者として見るとき、頭に留めておきたいのは彼は数学者として非常な功績があるということである。数学畑の哲学者というのが存在する。ライプニッツとフッサールはその代表だし、カントールやゲーデルも哲学的問題に言及している。チャールズ・ドジソン、つまりルイス・キャロルも哲学的な数学者かつ小説家である。
数学と哲学、確かなものと不確かなものを求める正反対の学問だと思いがちだが、現在ではそれが結びついているし、過去においても不可分のものであった。そもそもいろいろな学問は哲学から出てきたのである。
彼らの最大の武器は「論理」および「証明」であってその過程が明白なことである。スピノザのエチカは実に難解だがライプニッツに関してはそんなことはない。
では彼の著作から彼の意図していたところを見ていこう。文章はほとんど中公クラシックスの『ライプニッツ』によるものだが、『24の命題』については授業でラテン語から訳したものである。

まずはよく取りざたされるライプニッツのオプティミズムについてである。これは「この世界は最善である」という言葉に集約される。そして彼の「最善」とは「最完全」を意味する。
『モナドロジー』53から54節にはこうある。「神のもっている観念のなかには、無数の可能な宇宙があるが、現実にはただひとつの宇宙しか存在することができないから、あれではなく、これを選ぼうと神が決心するためには、それなりの十分な理由がかならずある。」「そしてその理由は、適合、すなわち、これらの世界がふくんでいる完全性のうち、どれが一番すぐれているかということのなかにしかない。」
つまり前提として神がこの宇宙を創ったということがあり、それがどんなものにするか選択する際に神ならば最善の可能性を選択しただろうから、現に宇宙は最善なのである。
そして最善、最完全とは「最も多いこと」をも意味する。これに向かう傾向があることは自然法則の観察から導き出される。円は同じ外周で最も多くの面積を含むゆえに完全である。雨粒も同様に最も効率的な形、球をとる。これと同様に、世界にもそうした最善へと向かう志向性があるとライプニッツは考えているのである。『事物の根本的起源』において「最少の費用で、最大の効果が得られる」ようなものだと言っているが、これは実際自然界に見られ人間も少なからず従っているようなルールであり、この見方は神とは違う方向からのアプローチだといえる。
どうもライプニッツにはアプリオリかつアポステリオリに同じ結論を導き(どちらが先かわかったものではないが)、それがベストだと考えるという傾向がある。
しかし最多、多様性を賞賛することはグールドなどの生物学の見解にも繋がるところがあり、見るべきところがあるのではないかと思われる。
一方で彼は悲惨な三十年戦争直後にドイツで生まれており、オプティミズムが単なる楽観主義のはずがないという見解もできる。

さて、彼の神概念について触れなければいけないだろう。これはいろいろな著作で実に明快に定義されているもので、一言で言うと「第一原因論」に基づいて存在する神なのである。
概要は以前訳した「神の存在の何百もの論証」の2番を見てもらえばわかると思うが、ここでは『24の命題』第3節から彼の発言を引用しよう。
「さてこうした存在者は必然的であらねばならない。さもなければどうしてその存在者がないのではなくむしろあるのかという原因がさらにその存在者の外に求められるべきである。これは(その存在者は必然的であらねばならないという)仮定に反する。だからかの事物は究極的な事象の根拠である。つまり一語で言うと<神>と通常言われるものだ」
実にややこしいが、事象には何らかの根拠があると考え、その根拠にはそのまた根拠が、と遡っていったとき最後にあるものが必然的な存在、つまり神だと言っているのである。
この神はなんら体験的なものを必要としない存在であって、神と対話したり、現在の事象に関与したりということができるものではない。ほとんどルールによって規定される、機械的な神である。
そして神が機械なら、人間もまた機械である。『モナドロジー』64節には「生物の有機的な体は、どれもいわば神の機械か、ある種の自然の自動体なのであって、人工のどんな自動体よりも無限にすぐれている」とある。
人工と機械の神の機械の違いは、同節で「(人工の機械は分解するともはや機械ではなくなるが)自然の機械、つまり生物の体は、それを無限に分けていってどんなに小さな部分になっても、やはり機械なのである」と言っている。なんだか小さなナノマシンや液体金属が結合して一つの個体を成しているSFの機械を思い起こさせる。
彼にとって重要なのは「分解しても機能する」もしくは何らかの性質を持っているという要素なのである。これは次に述べるモナドの話へと繋がっていく。

「モナド」とはあまり意義深い概念ではない、と言ってしまうと悲しいが、実際その後の無視されっぷりを考えるとそう考えたくもなる。ショーペンハウアーの「意志と表象」並みに二十世紀では出番がない。両者に共通している点は、ニーチェが執拗に否定しているところである。
それはともかく、解説に入ろう。まずモナドと古典的な原子論が違う点は、モナドは限られた根本要素ではないという点である。つまり熱冷乾湿といった属性ないしアトムとは違うのであって、一つ一つのモナドに名前をつけるということはしていない。モナドは複合体を作る要素で分解の心配はないのだが、だからといって「水のモナド」と「土のモナド」が組み合わさって人間、などそういう考え方はしない。
それは単一な実体を区別するための標章のようなものである。実際ライプニッツが原子論に不満を持ったのもそこであって、それではある実体と別の実体を区別できないではないかと言っているのである。区別できないことが良くないことであるのは先ほど述べたとおりだ。
だからモナドには性質があり、それは他者と交換不可能なものである。「モナドには窓がない」とはそういうことだ。
そしてモナドの独自性を薄める発言をさらにライプニッツはしている。『モナドロジー』8節で、「創造されたモナドは、すべてこれ魂と呼んでいいが(...)その表象がもっと判明で、記憶を伴うものだけを、魂と呼ぶべきであると思う」つまりモナドはすべて表象を伴うのであるが、モナド+記憶が魂なのである。
実際『形而上学叙説』26節で「魂が戸口や窓をもっているかのように考えるのは、われわれのもっている悪い習慣である」と述べており、これは『モナドロジー』7節の「モナドには、そこを通って何かが出入りできるような窓はない」という部分と非常に類似している。前者の著作が後者より幾分か古いことを考えると、モナドとは魂の概念より派生したことが伺える。この点でニーチェがモナドのことを「魂の原子論」と呼んだことは間違いではないと言えるだろう。
ここに神を付け加えると、彼の根底要素の位階が完成する。それは精神、魂、モナドという順序であり、前者は後者の上位にある、もしくはより多くの要素を含んでいる。
精神について、彼は「精神つまり理性的魂」と言っており、『モナドロジー』83節では「一般的に魂は、被造物から成り立っているこの宇宙の生きた鏡とか、似姿であるが、精神はさらにすすんで、神そのもの、自然の創造者そのものの似姿である」とある。
精神において、神を考え、触れることができるのである。ライプニッツは動物にも魂があると考えていたが、動物と人間の違いは精神、というよりもむしろ神を考えられるかどうかにあると思っていたようだ。

以上で彼の根本概念をまとめあげることができたはずである。
ではそこから世界に対してどのような解釈が生じるのか、道徳や善悪についてどう考えているのか、そして「現在は未来をはらむ」ということはどういうことなのかについて次回触れていこうかと思う。
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2009年07月28日

ピアノ熟達のための素人教本

ピアノを習っていた期間が、両親のうち片方がいた期間より長くなってしまった。
現在においても圧倒的に技術(というより練習量)は足りないわけだが、理論面においては長年の蓄積が意味を成している。
そこで、素人なりにピアノの練習とはどうすればいいのかを述べてみたいと思う。目標は「もはやレッスンに通わないでもピアノができる」である。まったくやったことがない人でも、これを読めばピアノの練習方法、ひいては音楽そのものがわかった気になるだろう。

レッスンの目的について
高校生などがバンドをやる場合、基本的に誰かに習いに行くことはしない。一方ピアノはレッスンに通うことが当然のようになっている。では何のためにレッスンに通うのか。その答えは二つある。
一つは定期的にピアノを弾くことだ。これはもうあからさまにやる気が希薄なのが前提の言い方だが、毎週弾かされることによって技術が衰えるのを防ぐことができる。前述のバンドはこの点積極的なためにレッスンは必要ないわけだ。
第二に、これが肝心なのだが、主に楽譜に書いていないことを教わるためにわれわれはレッスンを受けるのである。
楽譜に書いてあることを正確に再現するだけならばMidiファイルに打ち込むだけでよい。そうやって作った音源に欠けているものこそ、レッスンで習うべき事柄なのだ。

楽譜に書いていない事柄について
ではどういうことが楽譜になくて重要なのか。それはつまりピアニストにとって「暗黙の了解」となっていることで、それを自発的に取り入れられるようにするためのレッスンなのである。
具体的には、「強調すべき音」のことが挙げられる。
左手で三つの和音を、右手でメロディーを弾く時に、すべてを同じ音量で弾いたら三対一で和音が強くなってしまう。それでは曲の目指しているものから外れるために、メロディーを強く弾くことが必要とされる。しばしばレッスンにおいて注意されるのもこの点の不徹底である。
だから、メロディーを意識してそのベロシティーを上げるだけでMidiファイルの音楽もより理想的なものに近づく。
その他に習うことは指使い、テンポ、ペダリングなど数多いが、次にペダルの使用について取り上げる。

ペダルについて
中学の音楽の授業の後、モーツァルトのトルコ行進曲を弾いた人がいた。それは圧倒的な存在感を持って周囲の耳を惹きつけたが、その秘密は何のことはない、ペダルを踏みまくって演奏していたからだ。
乱暴な言い方だが、ピアノ演奏において濁らない程度にダンパーペダルを踏む、つまり前の音を止めずに延ばす、ことをするだけで流麗な演奏に聴こえる。一度に鳴っている音が多いのだから当然である。
このことはペダルの踏み方を覚えればうまいように聴こえることを意味する。一方それは他の繊細な表現の妨げにもなる。うまくいっているように聴こえるため一音一音の努力を怠るからだ。より良い演奏のためには、なるべくペダルに頼らず音を出す練習をする必要がある。
次に、習うことの中で最も難解かつ本質的な、力の加減、弾くときの姿勢について考えてみる。これはピアノの極意ともいえるものである。

ピアノの極意について
レッスンで指摘されることの多くが、「自然に弾く」ということに関するものである。しかしこの語法は実に厄介なものである。
誰かが「自然」と言うときは、「恣意的に定められた唯一のルール」を意味する。自分にとっては自分のやり方が自然なはずだが、それは不自然とされる。
ではその唯一の自然とは何か。これは思うに、「あらゆる演奏を最小限の動きで行うこと」なのである。
ロックにおいて、大げさに体を動かして演奏することに文句をつける人はいない。しかしピアノは違う。目指すべきものが「最小限」だからである。
これは武道などにおいて聞く理論でもある。振りかぶるパンチより、そのまま繰り出されるパンチのほうがボクシングの素養が感じられて怖いとも聞く。それと同様に、あたかも何の努力もしていないかのように困難な演奏を達成するのがピアノの極意なのである。
具体的には、遠くの音へ跳ぶときもそれを感じさせないように瞬間的に移動する、スケール(音の列)を弾くときもどの指も差がないように弾く、などである。
これらのただ弾くのとは違う「不自然な事態」が「自然」になるまで努力を重ねるのがピアノを熟達するということなのだ。
結果、ちょっと動いただけで相手が倒れる武術家のように、ほとんど指を動かさずに弱い音から最強音まで演奏できるピアニストが誕生することになる。これがピアノの完成である。
続いてレッスンを行う際に妨げとなるさまざまな事柄について解説を加える。まずは精神的な問題についてである。

集中について
これはたぶんあらゆる鍛錬に共通することだろう。何かをうまくやるために集中するとはどういうことか。これには個人差が大きく、最善の方法を述べることはできないが、一つの事例として語らせてもらおう。
いかにもありがちなことだが、集中するということについて、以前は「一つのことのみを考える」ことだと思っていた。ピアノを弾くなら曲のことのみを考えるのである。雑念さえなくせば集中できると思っていた。
しかしこの「一つのことのみを考える」ということを考えることが、いわば不自然な行いであって、集中から程遠いことが次第にわかってきたのだ。
一つの見解として言うのだが、集中はそういった努力を放棄した先にあるようだ。「自分の思考の操作を手放す」といったところだろうか。結果として全然関係ないことを想起していたとしても、先ほどの不自然な集中よりは効果が上がるものである。桑田乃梨子の『卓球戦隊ぴんぽん5』の主人公が考え事をしている時の方が卓球がうまいという能力を持っているのもこういう集中の特性を表現しているのではないかと思える。
次からはピアノに特有の問題、まずは暗譜について取り上げる。

暗譜について
暗譜はピアノレッスンの一つの課題である。曲は弾けても暗譜ができないためにつまずいたことが少なからずあった。多くのオーケストラ演奏者が楽譜を見ながら演奏することを許されているのに、ピアノについては暗譜が必要なのはなぜだろうか。
それは暗譜こそが、曲を習得し、レパートリーとして記憶する手段だと見なされているからである。この考えは正しい。見て完璧に弾けても暗譜していない曲はすぐに忘れてしまう。
これもやはり例の極意に基づいているように思われる。「楽譜があろうとなかろうとベストな演奏ができる」というのを目指しているのである。
暗譜のためには集中とは逆の要素が必要とされる。「指だけではなく頭で記憶する」ということだ。指暗譜はきわめて危険である。その場のノリに任せているところが多いからだ。そうではなくて、片手ずつでも弾けるほどしっかり記憶し、任意の場所から弾き始めることができるようにするのが、暗譜への最善の道のりだろう。
技術面はこれくらいにしておいて、手段の話に移ろう。演奏される楽器についてのピアノレッスン界の見解である。

弘法は筆を選ばずということについて
この言葉は多くの場合に当てはまらない。どんなプロであろうと楽器を選ぶ。ヴァイオリニストは高級な楽器を選ぶし、有名なギタリストは愛用の名器がある。最悪の楽器でもいい演奏ができるように、とはならない。演奏会の際には最高の道具を用意すべきだという考えがある。
ピアノもそうである。グレン=グールドなどは椅子まで選んだ。電子ピアノと生のピアノの間についていえることは、楽器が違うと技術の体系まで変わってしまうということである。
生のピアノでしか再現できないタッチがあり、それを教えているのだから、それが実行できない楽器など言語道断ということになる。
つまりピアノ教室とは「生」ピアノ教室であったのだ。これを認識しておく必要がある。
最後に演奏に必要となるもう一つの要素、楽譜について見てみよう。

楽譜について
ピアノの先生は楽譜にこだわる。あれがいいとかこれはいけないとか言う。その根底には、自分の演奏している音楽が作曲者自身のもので、曲がって伝わってきてはいないかということを確かめたいという意図がある。
たいてい良くないとされる楽譜は原典から遠いもので、誰かが演奏のために解釈を付け加えたりしている。だから曲はその解釈者を通してしか理解できないことになり、本来の曲に触れられる割合が減る。それを嫌うために、原典を選ぶのである。その解釈は弾きやすいようにとの配慮からきているものなのだが、多くの先生はそれを排除して、一から曲に向き合うことを望む。
こういった傾向の根拠には楽譜の持つ絶対性がある。音源として発表される現代音楽と違い、クラシックには楽譜しかない。逆にそうやって根底となるものが明示されているために研究の対象になりやすいのである。
一方現代の楽譜はというと、ほとんどが音源から採譜されたものである。この力関係が逆転しない限り、現代音楽の研究は進まないであろう。研究とは結局形あるものしか対象にできないのだ。


こうしてピアノのレッスンを取り巻く事象について解説したが、結論として、ピアノレッスンとは一つの技術と知識の体系である。その多くを占めているのが練習だが、それ以外の部分は以上の通りである。
人間が透明に見えても通り抜けられないように、秘技がわかってもどうとなるものではない。
しかしこの内部からの密告によってその神秘のヴェールはいくらか取り除かれることだろう。それがわれわれのなすべきことなのだ。